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私の被爆ノート

思い出したくない地獄

2014年2月20日 掲載
深堀 柱(83) 深堀柱さん(83) 爆心地から2・8キロの興善町で被爆 =長崎市宝栄町=

旧制鎮西中4年生のとき、学徒報国隊として魚雷を製造する三菱兵器製作所茂里町工場で働いていた。15歳だった。

原爆が落とされた日は空襲警報が出され、工場から約1・5キロ離れた興善町の長崎消防署に伝令のため走って向かった。警報が解除され、署内のベランダで休憩していたときのこと。浦上方面から敵機の爆音が聞こえたかと思うと、虹色の稲妻が一度に放出されたような強い光とごう音が襲ってきた。体が宙に舞い、壁や床にたたき付けられ、失神したようだ。目を覚ますと、背後にいた2、3人の男性は、窓ガラスの破片で頭や顔が切れていた。私は全身打撲で済んだ。

消防署の2階から道路を見下ろすと、焼け焦げた髪を振り乱して小走りする女性、焼けただれた手足の皮膚をぶらぶらさせて歩く中年男性、頭から血を流した子どもをおんぶした母親。地獄図を見るようで怖くなり、足が、がたがた震えた。

その夜は長崎市内の被害があまりに大きく、消防署内が混乱していて金屋町の自宅には帰れなかった。3日ぐらい後に自宅に向かったが、全焼していた。一緒に暮らしていた母の姿も見えず、へなへなと焼け跡に座り込み、泣いた。

2週間以上たっていただろうか、長崎駅前付近の防空壕(ごう)から顔を出していた母を見つけた。久しぶりに会い、抱き合ってしばし涙したことは忘れられない。防空壕の中では、爆心地に近い竹の久保町に住んでいた祖母が血まみれで横たわっていた。新興善国民学校の救護所に連れて行ったが祖母は傷口さえ縫ってもらえず、薬を付けてもらっただけだった。

防空壕付近では毎日、遺体が火葬されていた。焼く臭いで夜眠れないことが度々あった。自分の着ている学生服も原爆投下の日の朝に着替えたままで臭いが鼻を突いた。あの惨めな生活は思い出したくない。

<私の願い>

原爆に遭った人たちがどれだけ惨めだったか。たくさんの人が死に、今も後遺症に苦しんでいる人がいる。被爆者という理由で結婚を断られた人も知っている。平和構築のための一滴になればと思い、被爆体験を話し、被爆マリア像の絵を描き続けている。核兵器のない世界を望む。

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