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私の被爆ノート

顔に包帯代わりの油紙

2014年2月13日 掲載
山口 野一(86) 山口野一さん(86) 入市被爆 =雲仙市千々石町庚=

西彼香焼村(現在の長崎市)の川南造船所で、電気技師として働いていた。当時17歳。

昼前、屋外作業を終えて建物の4階で休憩していると長崎市の方角がピカッと光った。高圧線がショートしたのかと思い、窓を開けて外を見ると白い煙がどんどんこちらへ押し寄せてくる。あと100メートルほどで煙が到達すると思った時、爆風で体ごと約2メートル飛ばされ、作業台の隙間に転がった。割れた窓ガラスが散乱。同じ部屋にいた女子挺身(ていしん)隊や男性作業員ら十数人と1階に下りて近くの防空壕(ごう)へ。やがて警戒警報が解除されたので職場に戻り、片付けた。翌日以降は通常の業務だった。

15日正午、玉音放送をラジオで聞いた後、船で大波止に渡り、バスで千々石の実家に帰った。住吉から疎開していた兄嫁と子ども2人は8日に住吉へ戻ったという。長与の学校にいると聞き、16日に母とバスや列車を乗り継いで行った。しかし姿はなく、新興善国民学校の救護所に収容されていると分かり、向かった。

住吉の兄夫婦宅は焼失していた。浦上付近の兵器工場も鉄骨が傾いて無残な姿に変わり果てており、驚いた。コンクリート製の建物は残っていたが、木造家屋はなかった。まだあちこちに黒煙が上がっていて、馬の死骸を焼いているのも見た。

夕方、新興善国民学校に行くと、頭や顔に包帯代わりの油紙を貼った人々が寝ていた。油紙の隙間から目と鼻と口が見えるだけで、誰が誰だか分からない。子どもが「水をください」と泣き叫んでいた。そのうち「お母さん」と声を掛けられ、兄嫁がいることが分かった。爆発時は田んぼに漬かって草取りをしていたので、膝の下以外をやけどしたらしい。子ども2人は無事だったようだ。

その晩は救護所で過ごした。「水を」と言っていた子どもは、翌朝亡くなっていた。

<私の願い>

86歳という高齢になり、若い世代のために自分が見たことを話しておきたいと考えた。街並みを見渡すと、原爆投下からよくここまで復興したなと思う。あんな悲惨な目には二度と遭いたくない。 中国や韓国との領土をめぐる争いでは、武力を使わず、話し合いで解決を目指してほしい。

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