「疎開したらどうか」。ある日、近所の交番のお巡りさんに勧められた。原爆投下の数日前のことだった。それがきっかけで、戸町にあった病院の一室を借りて母と弟2人、妹の計5人で暮らすことになった。13歳だった私はよそに泊まるのがうれしくて、いそいそと出掛けた。
あの日は朝から、いとこが遊びに来ていた。爆音が聞こえたので友軍機かと思い、弟と3人で外に出た。「敵機」「マッチ箱みたいなものが落ちた」。いとこが叫んだ。驚いて空を見上げると銀紙をちりばめたようにキラキラと光って見えた。
ほんの一瞬、無音、無風の状態になり、辺りがしーんと静まり返った。「パーン。パーン」。爆風でガラス戸が持ち上げられたように次々と外れ、粉々に割れた。とっさにガラスを踏み越えて家の中にいる妹たちを助け出し、防空壕(ごう)を目指した。幸いけがはなかった。
防空壕には上半身を包帯で巻かれた女性が、戸板に乗せられて運び込まれてきた。しばらくして暑いだろうと思い、うちわであおいであげていたら、鼻の穴からぽろっとうじ虫が落ちてきた。女性はそこで亡くなった。
戦後は梅香崎町の実家に戻り、近くでげたを売って生計を立てていた。履物がない時代だったので結構売れた。1947年の春、突然、満州に出征していた父が大きなリュックサックを背負って帰ってきた。シベリアに抑留されていたという。何の便りもなくて心配していたが、ただいまとも何とも言わなかった。それでもほっとした。
「自分はこれで助かった」。父のリュックサックの一番上には碁盤が入っていた。手先が器用な父は重宝され、ソ連の将校に囲碁の打ち方を教えていたらしい。父はそれ以上、抑留の話をしなかったが、その碁盤を床の間の横に生涯大切に保管していた。
<私の願い>
戦争が終わったと聞いて「もう逃げなくていい」とほっとした。戦後は食べ物がなくて大変だった。弟たちは栄養が足らず、皮膚病になった。今の子どもたちには絶対に味わわせたくない。戦争をしないのが一番。核兵器、原発もなくしてほしい。平和で穏やかな生活、ただそれだけを祈っている。