当時7歳で立神国民学校の2年生。山沿いに段々に建てられた長崎市東立神町の長屋に家族で住んでいた。暑い日だったと思う。夏休みだったので自宅にいて、いつものように三つ年下の妹と一緒に、長屋と長屋の間の通路で遊んでいた。
すると突然、前の家の瓦や木片が頭上から落ちてきた。「家の中に入れ」。部屋の中から叫ぶ母の声。ごおーっという、にぶい音が聞こえた。覆いかぶさるように妹に抱きつくと、妹は泣きだした。体にいろんなものが当たった。びっくりしたのと痛いのとで何が何だか分からなかったが、言われるまま部屋に逃げ込んだ。
縁側の戸も、戸袋も倒れていた。模様入りのガラスが入った障子も倒れて破片が飛び、室内は散らかっていた。長屋にはほかにも子どもが住んでいたためか、あちこちで子どもの名を呼ぶような騒がしい声が聞こえた。
後で母から聞いた話だと、近所の大人たちは自宅の近くにあった三菱長崎造船所で何かが爆発したとか、町の方で爆弾が落ちたとか話していたようだ。
翌日、母は長崎駅の近くに住んでいた伯母と、そこに下宿していた姉を捜しに行った。2人とも後で無事が確認されたが、駅付近は燃えていたようだった。「造船所が近いから次は狙われるかもしれない」。11日朝、母の実家がある式見村に出発した。
浦上川沿いを歩いた。昼間なのに辺りは暗かった。覚えているのは黒いような赤いようなくすぶった光景。人かどうかも分からない黒い物体が重なって倒れていた。今思うと地獄絵図。母が「見るな」と言ったが目をつぶって歩くわけにもいかず、弟をおぶって歩く母のもんぺの裾を妹と両側からつかんで進んだ。人も踏み付けたかもしれない。川沿いを歩く最中の、何とも言えないにおいは忘れられない。
<私の願い>
あんな光景はもう二度と見たくないし、戦争は二度としてほしくない。福島で原発事故が起きたが、広島、長崎の被爆者の問題と根本は同じ。核をなくさないと終わりがこないし苦しむ人が増えると思う。世界中から核をなくすことが必要。国は原発政策を進めるなら後のことまで考えてほしい。