吉田 静男
吉田 静男(75)
吉田静男さん(75) 爆心地から2・4キロの長崎市立山町で被爆 =長崎市立山4丁目=

私の被爆ノート

クスノキで助かった

2014年1月16日 掲載
吉田 静男
吉田 静男(75) 吉田静男さん(75) 爆心地から2・4キロの長崎市立山町で被爆 =長崎市立山4丁目=

勝山国民学校1年生、6歳だった。13歳上の姉と一緒に諏訪神社を歩いていた時、ピカッと光った。「隠れて」。姉の叫び声と同時に、横にあったクスノキの幹のくぼみに一緒に身をかがめた。爆音が聞こえた。2人がやっと収まる広さ。歩いていた場所が少しでも離れていたら-。クスノキのおかげで無傷で済んだ。

くぼみの中で10分ぐらいたっただろうか。爆音の後、何が起きたかは分からない。ただ、立山町(当時)の家に戻る途中、神社に隣接した長崎公園の動物園で飼われていたサルや鳥が生きていたのは覚えている。ほかの5人の姉と両親は家の中にいて無事だった。爆風で傾いた家屋は、庭のセンダンの木にロープで結び付けられていた。

翌日から数日間、負傷者の手当てを手伝うため、救護所となった勝山国民学校に家族で通った。自分は付いていっただけだったが、級友が亡くなったと聞いて感じた寂しさは忘れられない。

夜は満州に出征中の兄を除く家族9人で、畑近くの防空壕(ごう)で過ごした。夏の暑さに加え、大量の蚊。蚊取り線香と蚊帳を張ってしのいだ。農家の父が畑で作っていたサツマイモや麦は被害を免れ、それで食いつないだ。腹いっぱいは食べられなかったが、ひもじい思いをした記憶はあまりない。8人兄弟の末っ子。今思えば、両親や姉が自分たちの分を分けてくれていたのだろう。

県立水産学校(現県立長崎鶴洋高)を卒業後、長崎市内の魚の加工会社に就職。4年後に「外の世界を見た方がいい」と母の勧めで、北九州市の製氷会社で働いた。初めての県外。被爆者に対する偏見の目や心無い言葉にも直面した。「いろんな人がいる」。そう自分に言い聞かせるしかなかった。28歳の時、古里でトラック運転手として再出発。そこで被爆者の悩みを相談し合える仲間ができた。

<私の願い>

安倍晋三首相の靖国参拝や、特定秘密保護法の成立などをテレビのニュースで見ていると、日本がまた戦争をする国になるのでは、との不安に襲われる。当然、核兵器はなくなったほうがいい。長崎は被爆地として声を上げ続ける必要があるだろう。でも、今の世界ではなくすのは難しいとも感じる。

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