傷痕が残る左腕を見ながら時々考える。あの一発がなければ、負い目を感じることなく生きられただろう。もっと勉強も続けられただろう。
17歳だった。旧制瓊浦中を繰り上げで卒業したが、引き続き学徒動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場で魚雷の部品を作っていた。手ががさがさになりながら「お国のために」と懸命に働いた。同じ工場に気になる女性がいた。すらっとした子で、たまに見かけるとうれしかった。
毎日、目覚町の自宅で両親、きょうだいの家族8人で朝食を取ってから工場に向かった。8月9日も同じ。工場の窓際で作業していた。突然、爆風に吹き飛ばされた。どれだけ意識を失ったのか分からない。気が付くと工場内はぐちゃぐちゃで、あちこちから助けを求める声が聞こえていた。私も左腕や背中にガラス片が突き刺さり、大量の血が流れていた。
何が何だか分からなかった。出血でフラフラになりながら、やっとの思いで清水町の照円寺付近から諫早行きの救援列車に乗り込んだ。明け方、諫早で治療を受け、家族を捜すため長崎に戻ると一面、焼け野原。防火水槽に入ったまま死んでいる人もいた。目を固くつぶり、苦悶(くもん)の表情だった。
自宅は全焼。4歳の妹は家の下敷きになって焼け死んでいた。行方が分からなくなった姉の一人は、その後発見されたが、次第に髪の毛が抜け、間もなく亡くなった。
あの日から長い年月がたったが、左腕と左〓、背中に残る傷痕を隠したいという思いは今も消えていない。特に結婚前、傷について聞かれると「昔はやんちゃでね」と言葉を濁した。体から取り出したガラス片は自宅にある。見ると今でも心が痛む。多くの人にガラス片を見てもらって、原爆の悲惨さを伝えるべきかもしれない。でもそれができないでいる。
【編注】〓は順の川が峡の旧字体のツクリ
<私の願い>
戦争だけでなく、いじめや虐待がなくなってこそ、真の平和だと思う。若い世代は、平和の大切さを理解しながらも行動に移せていない人もいるのではないか。「長崎を最後の被爆地にする」との強い意識を持ってほしい。そうなればきっと、被爆者の思いを継承することができると感じている。