末永 浩
末永 浩(77)
末永浩さん(77) 入市被爆 =長崎市立山2丁目=

私の被爆ノート

30キロ離れても ごう音

2013年12月26日 掲載
末永 浩
末永 浩(77) 末永浩さん(77) 入市被爆 =長崎市立山2丁目=

爆心地から約30キロ離れた諫早の山間部が一瞬、真っ白な光に包まれた。1分ほどたち、山が崩れたかと思うほど大きなごう音が響いた。

当時9歳。長崎市立山町に住んでいたが、1944年に父が病死。翌年4月、母方の祖父母がいる諫早市大場町に兄と一緒に疎開した。8月9日は、家の裏手で祖母、兄とジャガイモの皮むきをしていた。強烈な光と音に何が起きたか分からなかったが、松やにの採取から帰ってきた祖父が「長崎にかなり大きな爆弾が落とされたようだ」と言った。

昼ご飯を食べた後、友達と近くの川へ。泳いでいると、長崎方面の空が暗雲で真っ黒になった。黒い雨が降ったとされる西山や東長崎の方面に合致する。実家に残っている家族のことを思うと身震いがした。

立山町の実家には母と2人の妹がいたが、諫早の叔父が10日、長崎へ食糧を運んだ際、無事を確認した。

母が妹2人を乗せたリヤカーを引き、諫早に逃げてきたのは14日。その時に握った母の手の感触は忘れられない。上の妹は原爆で吹き飛ばされ前歯が折れていたが、下の妹にけがはなかった。

19日、家族5人で汽車に乗り、長崎に向かった。道ノ尾駅を過ぎると景色が一変、焼け野原が広がった。長崎医科大の煙突が折れ、三菱長崎製鋼所も全壊していてショックだった。長崎駅で降り、実家に向かう途中、黒焦げの遺体が所々に残っていた。「ピカドンはひどい」と思った。実家は火事を免れていたが、障子やふすまが壊れていた。

29歳で中学の社会科教師になり、平和教育に力を入れた。直接被爆したわけではないので、当初は語り部活動を遠慮していたが、知り合いの被爆者が他界するたびに伝えなければ、との思いが強くなった。今年から長崎平和推進協会の継承部会長を務めている。

<私の願い>

地球上から核兵器の廃絶を、と長年願っている。2011年には証言活動をしながら世界を一周する非政府組織(NGO)主催の船旅に参加した。だが、海外の人々に核兵器の非人道性を訴える機会はまだまだ少ない。原爆を体験していない人に非人道性をどう伝えるか、今後も模索を続けたい。

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