長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

広がる惨状 敗戦確信

2013年12月19日 掲載
岩本 信市(86) 岩本信市さん(86) 爆心地から4・5キロの長崎市大浦日ノ出町で被爆 =長崎市横尾3丁目=

当時17歳。九州配電(現九州電力)の立神変電所で働いていた。あの日は夜勤を終えて、居候していた伯母の家に帰宅したところだった。居間のちゃぶ台で、伯母と2人で朝ご飯を食べていた。

いきなり閃光(せんこう)が走り、「ボーン」と大きな音がした。たんすは倒れ、神棚が落ちた。窓ガラスも割れていた。部屋の中に砂ぼこりが舞った。私や伯母は倒れたが、けがはなかった。

これは大変だと思って外を見ると、けがをした人たちが歩いていた。「米兵が上陸してくる。男は連れ去られて殺される」といううわさを聞き、恐ろしくなって伯母と2人で唐八景まで避難した。午後2時ごろだった。

周囲には近所の人も数十人おり、その夜は野宿。米軍の戦闘機の音が聞こえ、恐怖を感じた。

それから数日後、電線を取り付けるなどの仕事で、長崎市内のさまざまな場所を巡った。

浜口町辺りでは、天井や壁が焼けてしまった路面電車の台車に、白骨が散らばり、砕けた頭蓋骨も落ちていた。口を大きく広げて、苦しそうな表情をした真っ黒焦げの遺体もあった。

爆心地周辺では、周囲の建物はすべて焼け落ちていた。家の土台に使われていたコンクリートやれんが、水道のパイプだけが、ところどころに残っていた。その情景を眺めていると、日本はこの戦争には絶対に勝てないと感じた。

幸い両親やきょうだいは大村市に疎開しており無事だった。10年後には妻と結婚。私と妻2人ともに被爆者で、同情し合ったのかもしれない。「被爆者は子どもが産めない」とのうわさもあったが、3人の子どもに恵まれた。

だが、けがの治りが悪いと、原爆の後遺症ではないかと不安を感じることもあった。被爆したときの経験は、親しい友人や子どもにもほとんど話してこなかった。

<私の願い>

原爆の被害はとてつもなく大きい。多くの人や動物、植物の命が失われる。放射能がなくなるまでには時間もかかる。今後は原爆を使ってはいけない。若い人たちには、原爆資料館などで原爆の被害を学んでほしい。核保有国は、自分たちが持っている核兵器を、減らす努力をしてほしい。

ページ上部へ