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私の被爆ノート

「水を」何人もの叫び声

2013年12月12日 掲載
中村 進(90) 中村進さん(90) 爆心地から4・1キロの長崎市西立神町で被爆 =五島市上大津町=

原爆投下後、多くの死体を目にした。臆病な性格なので見たくはなかった。惨状は、あまりにむごたらしく、口では表現できないほどだ。

当時22歳。三菱重工長崎造船所でクレーンを操縦する工員だった。沖縄県名護市出身。伊良部島で育ち、高校卒業後に長崎へ。国に奉仕する徴用工となり、島の住民たちにも喜ばれた。

あの日も普段通り、朝からクレーンを操縦。大小さまざまな資材や出来上がった部品を運搬していた。突然辺りが「ピカッ」と光り、「ドーン」と衝撃音が響いた。工場内は、ごみなどがもうもうと巻き上がった。すぐ近くに爆弾が落とされたと思った。クレーンの可動式の操縦席は高さ約4、5メートルの所にあり、停電でしばらく地上に降りることができなかった。

造船所近くの防空壕(ごう)には大勢の人が逃げ込んできていて、そこで「新型爆弾にやられた」と耳にした。近くの海岸からは浦上方面が見渡せたが、街全体が煙っているような状態で、赤い炎も見えた。県庁も燃え上がっていた。

翌10日は造船所内で編成された救護隊員の一人に選ばれ、三菱長崎兵器製作所大橋工場に向かった。途中、防火用水に頭から突っ込んでいたり、家の下敷きになったりしている多くの死体を目にしたが、通り過ぎるしかなかった。中でも、母らしき女性の遺体を背負ってしゃがみ込んでいる青年の姿は、やりきれない思いがして強く印象に残っている。

工場に着くと、惨状に足がすくんだ。人の姿は見えないが、がれきの中から「助けて」「水を」と何人もの叫び声が聞こえた。憲兵から、その声を聞かないよう言われた。がれきをかき分ければ助かった命もあったかもしれない。

壮絶な現場を目の当たりにして心身共に疲れ果ててしまい、翌日からは救護活動に参加できなかった。

<私の願い>

惨状を見たからこそ、戦争だけは絶対にしてはいけないと強く思う。ただ市民の力だけではどうすることもできない。政治家は「戦争は絶対にだめ」と主張し続けてほしい。アメリカに追随するだけでなく、われわれが安心して暮らせるよう平和を願う政府が求められている。

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