当時17歳。少年警察官として長崎市内で勤務していた。あの日は朝から空襲警報が鳴り、警備のため県庁内の県警本部に詰めていた。警報解除後、立山町(当時)の宿舎に帰った。昼食にはまだ早く、長崎駅前方面に風呂たき用の材木集めに行くことにした。
中町教会の辺りでかすかにブアン、ブアンと低い飛行機音が聞こえた。見上げた瞬間、強烈な光を浴びた。気が付くと側溝の中に横たわっていた。体のあちこちに血がにじんでいたが、痛みはあまりなかった。とりあえず同町の知事公舎そばの防空壕(ごう)に逃げ込んだ後、宿舎に戻った。
その後、稲佐方面に救援活動に行くよう命令が下った。制服一式と鉄かぶと、短剣、乾パン5枚を受け取り、同僚と稲佐署へ向かった。しかし銭座町や稲佐橋方面は通行できず、手こぎ船で大波止から旭町の岸壁までなんとか渡って同署に到着。
対岸は悲惨な状況。川には何十人も焼けただれた状態で浮いていた。城山町、竹の久保町方面からは、ぼろ布のような姿の負傷者がぞろぞろと列を成して歩いてきた。皮膚がずるずると垂れ下がり、白い筋や赤い肉がむき出しになった人たちがいつまでも続いた。
被災者の中に、制服姿の同署の巡査部長を発見した。全身にやけどを負い、ガラス片が顔中に刺さっていた。歩くこともできない状態でよろよろと寄り掛かってきた。同僚と2人で同署まで背負って運んだ。
翌日、巡査部長は亡くなった。稲佐橋近くの川べりに材木やトタン板を用意し、荼毘(だび)に付した。その場に、巡査部長の子どもらしき小学生の男の子が1人いた。なぜそこにいるのか事情が分からず、言葉も掛けられなかった。その子はけなげにも線香に火を付けて巡査部長の亡きがらにささげ、黙って手を合わせていた。私はあふれる涙で何も見えなくなった。
<私の願い>
世界中の国々が核兵器に依存する姿勢を変えない限り、核拡散を防ぐことはできない。人類の将来のためには、核兵器の廃絶が絶対に必要。あのような惨劇は二度と繰り返してはならない。