平間 淳
平間 淳(82)
平間淳さん(82) 爆心地から3・7キロの長崎市岩瀬道町で被爆 =対馬市厳原町今屋敷=

私の被爆ノート

まばゆい光 眼前覆う

2013年11月14日 掲載
平間 淳
平間 淳(82) 平間淳さん(82) 爆心地から3・7キロの長崎市岩瀬道町で被爆 =対馬市厳原町今屋敷=

厳原国民学校高等科を卒業する直前の3月、対馬を出て三菱重工長崎造船所で働くよう命じる通達があった。当時、14歳。いずれ先輩たちと同じように本土へ動員されると思っていたので、特別な感情はなかった。4月8日。厳原港に同じ年ごろの子どもが30人ほど集まり、夜行船と汽車で長崎へ向かった。

与えられた仕事は、電気溶接だった。飽の浦町の斜面地にあった寮の一室に数人で生活。6月中旬ごろまで浦上にあった研修所に通っていた。

あの日、私は造船所で最も大きな第三ドック近くの小屋にいた。まだ見習いで、作業を学んでいた。一息ついて外に出ると突然、まばゆい光が目の前を覆い、爆風が全身を吹き抜けた。浦上方面の上空を見ると傘のような大きな黒い雲が立ち上がり、辺りが次第に暗くなった。敷地内の建物はガラスが割れ、体中に破片が突き刺さり大けがをした人もいた。何が何だか分からないまま、寮に帰った。

「新型爆弾が落とされた」。翌日以降、周囲でうわさが広まる一方、いつまでも上司からの指示はなかった。空腹を満たすため寮周辺を歩き、破壊された食品工場の缶詰を拾って食べた。浦上川近くには遺体のような黒い塊が転がり、焦げた馬がおなかを風船のように膨らませてひっくり返っていた。川の向こうは焼け野原が見え、恐ろしくて立ち入れなかった。

「対馬へ帰ろう」。8月下旬、一緒に来た友人7人と決めた。夜に寮を抜け出し、月明かりを頼りに線路をひたすら歩いて長与駅を目指した。福岡行きの汽車に乗り、友人たちと別れた。漁船を改造した日本軍の船が博多港から対馬へ向かうと聞き、乗せてもらった。

当時、軍が駐留していた美津島町の高浜港で下船。自宅に着くと、両親が驚いて出てきた。島では「長崎全滅」という情報が飛び交い、私は死んだと思い込んでいた。

<私の願い>

長崎に滞在したのはわずか4カ月だが、紙一重で生き残れたように思う。原爆は一発ですべてを破壊し、その後も被爆者の健康不安は続く。子どもたちのため、恐ろしい兵器は二度と使ってはならない。ただ、戦争を知る世代が減り、平和のありがたさに気づかない若者も増えているように感じる。

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