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私の被爆ノート

激しい閃光と爆風襲う

2013年11月7日 掲載
小柳ハルコ(91) 小柳ハルコさん(91) 救護被爆 =新上五島町岩瀬浦郷=

当時22歳。奈良尾町岩瀬浦地区の挺身(ていしん)隊岩瀬浦班の一員として、浜串、福見班の約50人とともに、爆心地から約10キロ離れた川南工業香焼造船所でガスバーナーを使った船舶部品の切断作業に動員されていた。8月9日、建物の1階で作業をしていたが、班長の荒木さんから部品磨きの手伝いに行くよう指示を受けて3階に上がった。

浜串班の友人と話をしながら作業をしていると、「ピカッ」と激しい閃光(せんこう)が走った。直後にごう音とともに爆風が襲ってきた。荒木さんの顔にガラスの破片が飛び散り、顔中血まみれになるのが見えたが「おまえたちは逃げろ」と言われ友人と2人、無我夢中で防空壕(ごう)まで走って逃げた。

午後になり友人と入所していたなぎさ寮に戻った。翌朝、寮内放送で挺身隊は長崎市へ救護活動に向かうようにと命令があったが腹痛に襲われ行くことができなかった。

11日朝、男子寮に長崎市から船で多くのけが人が運ばれてきたが、中には「天皇陛下万歳」などと声を上げながら死んでいく人や、顔中に薬を塗られ目玉しか見えない人もいた。足に大やけどを負った男子学生が私に「足の指の中でうじ虫が動き痛い。取ってください」と懇願してきた。私は着けていた名札の安全ピンをまっすぐ伸ばし、肉をついばむうじ虫を取り除いてあげた。

「ありがとう、ありがとう」とお礼を言う学生と2人一緒に泣いたのを今でも鮮明に覚えている。大やけどの理由を聞くと、弟を助けるために原爆が落ち高熱で焼けたアスファルトを靴をはかずに走ったという。

13日に隊の仲間とともに、長崎市の榎寮へ向かったが、室内はガラスの破片などが散乱していた。じっと助けを待っていると1週間後、漁師をしていた知人が大波止に運搬船で迎えに来てくれ、仲間と安堵(あんど)しながら岩瀬浦へ戻った。

<私の願い>

救護活動中の悲惨な光景は一生忘れることができない。原爆は多くの命を一瞬で奪い、生き残った人々の人生も狂わせた。私は幸い5人の子や10人の孫らに囲まれ、幸せな人生を送ることができ、平和な世界であってほしいという思いが一層強くなった。核兵器は一刻も早く廃絶すべきだ。

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