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私の被爆ノート

死を悟った父に号泣

2013年10月31日 掲載
山崎 照代(75) 山崎照代さん(75) 爆心地から3・3キロの長崎市伊良林町2丁目(現伊良林2丁目)で被爆 =大村市諏訪1丁目=

7歳の私はパンツ一つの姿で、伊良林町2丁目の高台にあった自宅の庭で遊んでいた。家の中では母が生後3カ月の一番下の妹におっぱいを飲ませていた。飛行機の音を聞いた母が「B29の来よる。はよう防空壕(ごう)に行かんば」と言ったので、1人で裏の壕へ。

溝で用を足そうと、しゃがんだ瞬間、ピカッと強烈な光に包まれた。壕内に逃げ込み、しばらくして母と妹2人、ひいばあちゃんが来た。家では畳が爆風で持ち上がり、母たちは、その下にある芋の保管場所に落ちたという。「怖かったね」「よかったね」と無事を確かめ合い、家に帰った。

天気のいい日だったが、空は薄暗くなっていた。紙切れの燃えかすが舞い、黒い雨も降り、みんなで不思議がった。

夕方、防空ずきんをかぶり、荷物を抱えた人たちがぞろぞろと街の方から上ってきた。家を失ったのだろう。うちでは庭や軒下にござを敷き20~30人を何日間か泊めた。

座敷には私と年が近く、体中をやけどした男の子とその妹が寝ていた。蚊帳を張っていたが、ハエが入り傷口に卵を産み付け、うじ虫がわいていた。その母親がピンセットで取ると「痛い、痛い」と泣いた。2人はしばらく滞在し、やがて元気になった。

一方、8月9日に三菱長崎兵器製作所大橋工場で守衛をしていた父が行方不明となり、翌日から母は一番下の妹をおぶって、叔父と捜した。叔父が同工場付近で父の名を叫んでいると、川の近くで父が呼び返し救出された。建物が崩れ背中に当たり、骨を折っていた。

父は40度の熱が続き、髪の毛も抜けた。8月21日朝、死を悟ったのか、家族を集めた。一人一人に声を掛けた後、一番下の妹をおなかに乗せ、3回「バンザイ」と言って抱き上げた。みんなわんわん泣いて見ていた。父はその夕方に死に、遺体は畑で焼いた。その妹も1年後に病気で死んだ。

<私の願い>

同じ人類なのに殺し合い、子どもたちまで犠牲になる戦争に心が痛む。最愛の家族や多くの尊い命を奪い、苦しめ続ける原爆も絶対に嫌だ。父にはとてもかわいがってもらった。守衛だったので記憶に残っている人がいるかもしれない。もしいたら、お会いして、在りし日の父の話を聞いてみたい。

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