草野 護
草野 護(86)
草野護さん(86) 爆心地から4キロの長崎市西小島町で被爆 =南島原市西有家町長野=

私の被爆ノート

息絶える直前の水

2013年10月10日 掲載
草野 護
草野 護(86) 草野護さん(86) 爆心地から4キロの長崎市西小島町で被爆 =南島原市西有家町長野=

当時18歳。長崎市の三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場で、魚雷の部品製造を担当していた。

8月9日。徹夜勤務を終えて西小島の下宿先に帰り、2階の自室で上半身裸で休んでいた。「ゴー」と飛行機の音がしたので外をのぞくと、激しい閃光(せんこう)が走った。慌てて敷地内の防空壕(ごう)に逃げた。数分後、下宿の建物に戻ると、窓ガラスが全て割れていた。熱線を受けたせいか、上半身が真っ赤になっていた。

その夜、下宿仲間の少年3~4人がそれぞれの勤務先から戻ってきた。このうち同製作所茂里町工場に勤務していた少年の一人が、現場で会った少女の話を始めた。

少年によると、少女は倒れた鉄の棒と棒の間に腕を挟まれ、身動きが取れなくなっていた。炎が迫り、少女は「腕を切り落として」と何度も叫んだ。少年がためらうと、「せめて母からもらった腕時計を母に返してほしい」と懇願。少年は少女の手首から腕時計を外して預かり、その場を去ったという。助けられなかった悔しさや申し訳ない思いを語る少年に皆、居たたまれない気持ちになった。

翌朝、トンネル工場の同僚の安否が気になり、1人で向かった。途中、焼け野原に死体がごろごろと転がり、あちこちから「助けて」「お母さん」という叫び声が聞こえてきた。

太陽が照りつける中、浜口町付近を歩いていた時、おけとひしゃくを持った50歳前後の女性が、全身を焼かれた人たちの口元に水を注いでいた。皆、自分のことで精いっぱいの状況。それでも息絶える直前の人たちに最期の水を恵み、苦しみから解放してあげていた女性の優しさに胸を打たれた。

トンネル工場では、知った人は誰もおらず、結局、下宿先に引き返した。数日後、実家がある西有家町(現南島原市)に帰った。

<私の願い>

原爆投下後の光景は、とにかく悲惨だった。原爆は夢や目標を持った若い人も一瞬で奪ってしまった。核兵器をつくる技術を持っていても、核保有国それぞれの事情があっても、二度と使ってはならない。廃絶すべきだ。人間同士、お互い仲良くして平和な世界を築いてほしいということに尽きる。

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