当時14歳で、長崎女子商業学校3年。三菱造船所が長崎経済専門学校(長崎大経済学部の前身)から借りていた片淵の事務所へ学徒動員され、帳面を付ける事務作業に従事していた。
ちょうどトイレにいた時に大きな爆発音が聞こえ、建物がガタガタと揺れた。近くの防空壕(ごう)へ逃げる際、倉庫の窓ガラスが割れて破片が降ってきたが、無我夢中で走った。
壕にしばらくいた後、事務所へ戻ると、私の机に梁(はり)が崩れ落ちていた。「間一髪だった」と思いながら荷物を取り、家族を捜しに勝山町の自宅へ急いだ。
電車通りを進みながら気付いたが、空一面が真っ黒。ぐるりと見渡しても全てがどす黒く、「あっちもこっちも燃えているのでは。どこへ逃げればいいのか」と怖かった。包帯を巻かれた大勢の負傷者を乗せたトラック数台と擦れ違い、異様な光景だった。
自宅は無事だったが誰もおらず、近所の人から「家族は田上の壕に行ったよ」と聞いた。高台の壕へ捜しに行き、ようやく母やきょうだい5人と再会。夜には父も合流でき、無事を喜び合った。
夜明けに全員で帰宅。父の実家がある北高深海(ふかのみ)村(現諫早市高来町)へ疎開するため布団や茶わんなど生活用品を大八車いっぱいに積み、皆で押して日見トンネルなどを延々と歩いた。
戦後も極貧生活が続いた。9月に簡素な家を実家そばに建てたが台風で倒れ、再建。父は近くの農家を手伝い、芋や野菜を蒸して家族で食べた。
20歳から私は佐世保市吉井町の叔父宅で世話になり、布団の打ち直しや食堂を営むなどして暮らした。27歳の時、父が亡くなった。父は被爆時、米屋に勤めていて、稲佐方面の港で米俵の積み降ろし作業中だった。亡くなる数年前に失明したが、原爆の閃光(せんこう)が目に影響したのだろうか。
<私の願い>
混乱期に疎開し、卒業証書ももらえず中途半端なままだった。戦争は、生と死の境の極限状態で人間と人間が殺し合う、みじめなもの。繰り返してはだめ。みんないつまでも仲良く暮らせるのが一番。海外の戦争や化学兵器などを報道で知り、どうしようもない思いに駆られ涙が出る。