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私の被爆ノート

母の耳や鼻からうじ

2013年9月19日 掲載
中川 美咲(79) 中川美咲さん(79) 爆心地から0・8キロの城山町2丁目で被爆 =長崎市戸町2丁目=

当時私は城山国民学校の5年生。あの日、朝から母は畑作業に行き、私は弟や近所の子たちと遊んでいた。飛行機の音がしたため、防空壕(ごう)に入ろうとした瞬間「ピカッ」と光ったかと思うと、そのまま壕の奥に飛ばされた。

目を覚ますと、外で大人たちが「早く逃げろ」と騒いでいた。私は弟たちと一緒に立岩神社方面に逃げた。途中、右腕がちぎれたおじさんから「山の方は火事だから行かない方がいい」と言われ、もとの壕へ戻った。

夕方、全身血だらけで服もぼろぼろの女性がやってきた。「誰だろう」と見ていると、母だった。家の下敷きになったらしい。母と会えたことに安心し、私はぼろぼろ泣いた。

しばらく壕の中で生活したが、母は耳や鼻からうじが湧き、寝込んでいた。私たちは現在の平和公園下の壕の前でおにぎりを配っていると聞き、向かった。道中は、黒焦げの妊婦や積み上げられた死体だらけだった。

もらえたおにぎりは一つだけ。「母の分もください」とお願いしたが駄目だった。母はほとんど話せなかったが、5歳ほど年上で、現在の松山公園あたりで働いていた姉を「捜してこい」と言われた。勤め先があった場所に行ってみたが、一面焼け野原。遺骨は今も見つかっていない。

18日ごろの朝、母は死んだ。どうしようもできず、鼻や口に防空頭巾の綿を詰めてあげた。壕の前に寝かせ、私たちは小菅町の祖父の家に向かった。母はその後、親戚が火葬したらしい。

きょうだいは親戚に別々に引き取られた。私はほとんど学校に行けず、農作業の手伝いをさせられたり、貝とりをしていた。食事も満足にできず、つらい日々だった。何度も首をつろうとしたり、線路に飛び込もうとした。でも、そのたびに「辛抱せろ、死んだら駄目ぞ」と、耳元で母の声がして思いとどまった。

<私の願い>

母や姉、同級生の苦しみを思うと、8月9日は平和祈念式典の会場に出向きたいと思うが、いつまで続けられるか分からない。助かったにせよ、助からなかったにせよ、戦争は苦しいもの。子どもや孫の世代にまで影響してしまう。これから先、絶対にあのような戦争は起こしてはいけない。

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