長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

血まみれで応急措置

2013年9月12日 掲載
本間 宏保(85) 本間宏保さん(85) 爆心地から2・5キロの平戸小屋町で被爆 =西彼時津町日並郷=

1945年3月に当時の海星中を卒業し、希望通り長崎医科大付属薬学専門部(薬専)に進学。当時17歳。勉学に励みたかったが、7月、薬専で病身の人以外は学徒動員させられ、私は平戸小屋町の三菱電機長崎製作所で飛行機の部品作りをすることになった。

工場の天井はガラス張りで、空がよく見えた。毎日のようにグラマン戦闘機が上空に現れた。

9日。この日はたまたま鎮西中の生徒を指導するため、普段通っていたガラス張りの工場ではなく、屋外で坑木運びの作業をしていた。午前10時50分にいったん作業を終え、便所で用を足して出てきた時、被爆した。

直前に、鐘が「カンカンカン」と鳴ったのを覚えている。次に、黄色い砂のようなものが降ってきた。そして、すさまじい爆風で押し倒された。飛んできた木片が頭に当たり、大量に出血した。防空壕(ごう)まで約5メートル。地面をはいつくばって何とかたどり着いた。

仲間が次々と壕の中に入ってきた。用を足していた人は、便所がくみ取り式だったので逆流し、男も女も便まみれになっていた。間もなく、上司に「君は薬専だからけが人の救護に当たれ」と指示された。赤チンと包帯ぐらいしかなかったが、私は頭から流れ出る血にまみれながら、運ばれてくるけが人の応急措置に必死で当たった。

ガラス張りの工場にいた仲間は助からなかった。後から聞いた話では、大学に残った同級生も死んでしまった。

病気ではなく学徒動員されたから。そしてあの日、たまたま違う場所で作業していたから、私は助かった。

家族は端島(通称・軍艦島)に住んでいた。父は、端島唯一の寺「泉福寺」のお坊さん。原爆投下の2、3日後に帰島して無事を知らせると、泣いて喜んでくれた。やっと、自分のけがも治療できた。

<私の願い>

原爆が投下された日の夕方、工場から船で大波止に渡り、下宿のあった夫婦川に帰る際に見た光景は忘れられない。ひどいけがをした多くの人が、水を求めて汚れた川にごった返していた。私の知っている日常は消えていた。長崎での惨状を決して繰り返してはならない。原爆や核兵器を許さない。

ページ上部へ