小島 幸満
小島 幸満(84)
小島幸満さん(84) 救護被爆 =壱岐市郷ノ浦町=

私の被爆ノート

3時間歩いて搬送

2013年8月22日 掲載
小島 幸満
小島 幸満(84) 小島幸満さん(84) 救護被爆 =壱岐市郷ノ浦町=

諫早にあった県立農学校(現在の県立諫早農業高)普通科の2年生、16歳の時だった。学校の農場では、長崎の三菱重工の食料用に農作物を栽培していた。

空襲警報や戦闘機による機銃掃射は頻繁にあった。農場から学校までは歩いて40分ほど。広大で隠れる所もなく、警報が鳴っても学校には避難しなかった。戦闘機が向かってくると、草むらに身を伏せてしのいだ。銃弾が水田に降り注ぐと水柱が走った。怖かったが、撃たれて死んだ学生はいなかったように思う。

その日も農作業に従事していた。1機のB-29が頭上の雲の切れ間を「グオングオン」と音を立てて通過するのが見えた。数分後、長崎方向に一瞬にして黒いきのこ雲が上がった。白い落下傘が三つほど見えた気がした。

黒煙は西風に乗り、すぐに諫早まで流れてきた。空一面に広がると日光を遮り、太陽が真っ赤に見えた。はっきり輪郭が見えるほどだった。数日前に、朝礼で校長から「広島に新型爆弾が落とされた」と聞かされていたので、なんとなく、それだろうとは思った。不思議と恐怖心はなかった。

2日後、友人と3人で「長崎ば見に行こう」と、諫早から道ノ尾駅まで列車に乗った。長崎の町をどれほど歩き回ったか忘れたが、馬車が全てひっくり返り、建物や人、全てが焼き尽くされていた。辺りには人が焼けた臭いが立ちこめ、「ここにはおれん」とその日のうちに諫早に帰った。

19日、生徒は諫早中の運動場で、講堂に集められた長崎からの負傷者を佐世保海軍病院分室まで運ぶよう指示された。4人一組で担架を持ち、1人を約3時間かけて搬送。死んでいるのか生きているのかも分からない。話し掛けることもなく、ただ歩き続けた。何人運んだかは覚えていない。首や脇など皮膚が薄い所からうじが湧いていて、悲惨な状況だった。

<私の願い>

暴力で自分のものにするという気持ちを捨て、思いやりの気持ちを持ち、戦争をしないで話し合いができる社会になってほしい。原発の放射性物質は、最終的には処分しなければならず、将来に不安を残すもの。原発には反対で、危険性がない発電方法を願いたい。

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