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私の被爆ノート

世の中の終わり実感

2013年8月8日 掲載
小西 伸一(74) 爆心地から4・2キロの長崎市大浦相生町(現在の相生町)で被爆 =長崎市相生町=

当時6歳。教会学校での勉強を終え、自宅に帰ろうと大浦天主堂前に立っていたとき、突然、「ビカッ」という強烈な閃光(せんこう)が走った。正面から地鳴りのような爆風が吹き付け、尻もちをついた。

何が起きたか分からずぼうぜんとしていると、天主堂裏の岩山にぶつかった爆風が吹き返し、無数のステンドグラスの破片が降り注いだ。その一部が後頭部に刺さり、血がしたたり落ちた。白いシャツは赤く染まり、天主堂近くの自宅に逃げ帰った。ガラス戸は割れ、瓦は吹き飛び、家屋も傾いていたが、幸いにも家族にけがはなかった。

修道院の防空壕(ごう)に行くと、中に50人ほどが避難していた。焦げた髪や衣類が、赤茶色に焼けただれた皮膚にべっとりと付着し、息絶えていく人を見たとき、死の恐怖を感じた。夜に外に出ると、上空に火の粉が舞い、大きなたき火のようにまちを真っ赤に燃やしていた。世の中に終わりが来た。そう思い、体が震えたのを覚えている。

翌日、母と祖母は三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いていた叔母を捜しに出掛けた。叔母は現在の西彼長与町の救護所に運ばれており、瀕死(ひんし)の状態。せめて最期は家族でみとろうとリヤカーで連れて帰った。目立った傷はなかったが、鉄骨の下敷きになり内臓をやられていたようで数日後、息を引き取った。優しい叔母がなぜこのような目に遭うのか。行き場のない思いが募った。

遺体をリヤカーで家野町の墓地まで運ぶ途中、廃虚と化した長崎のまちを見た。建物は鉄骨だけが残り、すべてが燃え尽き、がれきの山となっていた。町中に遺体を焼く臭いが充満し、鼻を突いた。その臭いは夏が来るたびに思い出す。

終戦後、家計を支えようと子どもながらに懸命に働いた。家族は生きるために一丸となった。それでも、被爆して裕福になった人など、どこにもいないだろう。

<私の願い>

人間の生命の破壊であり、死である戦争は、なくさなければいけない。 そのためには、故永井隆博士の言葉にある「如己愛人」のように、己のごとく人を愛することが必要だと考える。 ただ自分を大切にできてこそ、他人も大切にできるはずだ。そのことを子どもたちに伝えたい

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