長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

負傷者励まし声掛け

2013年8月1日 掲載
浦 リセ(85) 浦リセさん(85) 川棚町で救護被爆 =東彼川棚町下組郷=

当時17歳で、東彼川棚町役場の事務職員。家は貧しかったが、なぜかその日に限って母が新調してくれた真っ白な水兵服を着て、出勤していた。

庁舎裏の倉庫に書類を運び込んでいた時に「どど~ん」と鈍い音が響き、地面に伏せた。何が起きたのか分からなかった。しばらくして起き上がり、「母に会いたい」と夢中で走りだした。

庁舎と、大村湾沿いにある自宅の中間辺りで、私を心配してこちらへ向かってくれていた母と落ち合うことができ、抱き合って無事を喜んだ。湾の向こうの空に、キノコのような形の煙が上がっていたのを覚えている。

母と別れて庁舎に戻ると、上司から「長崎に爆弾が落とされた。負傷者を乗せた列車が来るので、段取りを」との指示。私は、搬送先となる川棚海軍工廠(こうしょう)工員養成所で、負傷者から氏名や住所を聞き取る担当になった。暗くならないうちに、皮膚が焼けただれ血だらけになった人たちが運び込まれてきた。「日本が負けて、みんな殺される」と思い、恐怖で泣きだしてしまった。

負傷者から氏名を聞こうと口元に耳を寄せると、言葉にならないうめき声が返ってきたり、助けを求めてしがみつかれたが、励ましながら声を掛けるしかなかった。夜になると、ノートは血でべとべとになっていた。

数日間、自宅に戻らず工員養成所やほかの搬送先を巡ったが、その先は記憶がない。次に覚えているのは、夢の中できれいな川を渡ろうとした時に、友人から「リセちゃん」と呼び止められ、自宅で目を覚ましたこと。高熱で倒れて運ばれていたらしく、その後、腸チフスと診断されて2カ月近く入院した。

あの真っ白だった水兵服は血や泥でどす黒く汚れ、あちこちちぎれて着られなくなっていた。私の身代わりになってくれたに違いない。

<私の願い>

苦しむ被爆者を目の当たりし、たとえ敵討ちであっても人を殺したり、戦争を起こしてはいけないと強く思う。あんな惨めな思いは誰にもさせてはいけない。被爆の影響か腸チフスの影響なのかは分からないが、体が弱くなってしまった。体が丈夫であれば外に出て、声の限り反戦を訴えて回りたい。

ページ上部へ