勝山国民学校、新興善国民学校は負傷者で足の踏み場もなかったが、それでも次々と患者が運び込まれてくる。顔は腫れ上がり、髪の毛は抜け、傷口からうじ虫がわいている様子を見て、目を背けたくなった。亡くなった人は角材を積むかのようにトラックに放り込まれていた。負傷兵の看護には慣れていたつもりだったが、想像を超えていた。
私の名前を呼ぶ人もいたが、けがややけどで誰だか分からない。うじ虫を「取って、取って」と泣き叫ばれても、どうしようもなかった。自分の左半身もガラスの破片が刺さったまま。手当てをする暇もなく左膝からはうじがわいていたが、痛みに耐えながら懸命に救護した。
不眠不休の看護をしながら、昼間は徒歩で各地の救護所を回り、父を捜し続けた。夕方には戻らなければならず、1日に1カ所しか行くことはできない。母は父を諦めようと言うが、たとえ亡くなっていたとしても遺体だけでも連れて帰ろうと思い、死体などでふさがった道なき道をひたすら歩き回った。
1週間ほどたって、体力も限界に近づいたころ、ここが最後と思って時津の救護所に向かった。父の名前を大声で叫びながら捜していると、弱々しく手を挙げた人がいた。「お父さん」。そう声を掛けると小さくうなずいた。
父は頭から顔にかけてガラス片が刺さり血だらけで、足を骨折していた。その顔は人間ではなく真っ赤な鬼のお面のようだった。自分の服をちぎって父の足を固定した。実家まで歩けない父をどうやって連れて帰ったかは覚えていない。
被爆者の看護が一段落した1946年1月、兵庫県姫路市の病院に異動した。そのころから鼻や歯茎から血が出るようになった。目が飛び出しそうなくらいの頭痛に悩まされ、嘔吐(おうと)するたびに意識を失うようになった。
47年3月に帰郷したが、原爆症で亡くなった人の訃報を聞くたびに「もしや私も」と不安な毎日だった。病院に行っても原因はわからず、眼底の神経は一生治らないと言われた。夏が近づくと、また、頭痛がひどくなる。
<私の願い>
「核兵器、核実験がなくならないと世界平和はありえない」。このことを世界中の人々が自覚しない限り、私たちの安住の地はない。原爆の恐ろしさや残虐さを直接体験した私たちが先頭になって訴えたい。家族や友人を亡くした人、いまだに苦しんでいる人たちの分まで叫び続けていきたい。