学徒動員中に看護婦の資格を取り、長崎純心高等女学校を卒業後、大阪日本赤十字社第1陸軍病院に勤めていた。当時16歳。7月の大阪大空襲で病院が爆撃されたため、戦地から送還されていた傷病兵を気にしながら、長崎市東北郷(現住吉町)の実家に帰省した。
8月9日、うだるような暑さの中、母と雑談しながら昼食の支度をしようと立ち上がった瞬間、ものすごい爆風で吹き飛ばされ、意識を失った。
どれぐらい時間がたったのだろうか。意識が戻ると、遠くで母の呼ぶ声が聞こえた。私はがれきの下敷きになって身動きが取れず、母の助けを借りて、ようやくはい出した。
左半身にガラスの破片などが無数に刺さり、血でべっとりとしていた。幸い無傷だった母に連れられて、自宅の防空壕(ごう)に避難した。2日後、三菱長崎兵器製作所茂里町工場に勤めていた父の同僚から、父は大けがを負いながらも生きており、銭座町の寺に運ばれたと聞いた。急いで捜しに行ったが、見つからなかった。
原爆投下から3日後、日赤長崎支部から非常招集が掛かった。救護班として新興善国民学校を目指すも、がれきで道は分からない。切れた電線がぶら下がり、建物のほとんどは倒壊していた。
人や馬も黒焦げで散らばり、息ができないくらいの異常な臭気が漂う。傷ついた人たちは肉や皮が垂れ下がり、生ける屍(しかばね)のようだった。男女の判別もつかない人がしがみついてきて、「水を」とだけ言って息絶えた。大勢の人が、白衣にもんぺ姿の私を見ると助けを求めてきたが、逃げるように振り払った。
家野町の三菱長崎兵器製作所大橋工場前で、3月まで学徒動員で一緒に働いていた同級生が報国隊の腕章をつけたまま死んでいるのを見て、足がすくんだ。亡くなっている妊婦の腹から胎児が飛び出しているのを目の当たりにして、言葉を失った。
赤ちゃんを背負った女性からは「子どもを(背から)降ろして」と頼まれたが、赤ちゃんは頭をだらりと下げて死んでいた。「もう亡くなっています」。そう伝えると女性は、その子に乳を飲ませようとした。そのときの私はまだ若く、女性の行動を母性本能として理解することはできなかった。