当時16歳で、国鉄の車掌として働いていた。8月9日は午後3時28分長崎駅発の上り列車に乗務予定。午前11時ごろ、大村市下諏訪の実家を出て大村駅に向かおうとした時だった。ごう音がとどろき、大村湾の向こうに赤い火柱が見えた。
汽車に乗り、午後3時ごろ道ノ尾駅に到着。そこで「長崎に新型爆弾が落ちた。ここで止まる」と告げられた。同駅構内には救援列車が停車しており、中は負傷者でいっぱい。とにかく職場に向かおうと、西山経由の馬車に乗せてもらった。
長崎駅にたどり着いたのは日暮れ前。駅舎は全焼し、同僚の姿もなかった。仕方なく道ノ尾駅まで歩いて引き返した。浦上駅など爆心地近くも通ったはずだが、線路を見て歩いた記憶しか残っていない。
翌朝から道ノ尾駅発の救援列車に乗務し、少なくとも14日まで連日働いた。10日は壊れた大橋鉄橋の手前まで運行。そこで負傷者を乗せ、病院のある諫早、大村、川棚、早岐などに送った。
汽車が焼け野原に入ると負傷者が次々と土手をはい上がり、乗ろうとしてきた。ひかないよう、機関士が汽笛を鳴らし続けゆっくり進行。スピードは1分間に10メートル動くかどうかだったと思う。
10日か11日、大橋鉄橋近くで、30代くらいの女性が汽車に近づき、「止めてください。乗せてください」と必死の形相で訴えた。やけどした手で車輪につかみかかりそうなほど間近に迫った。停車し、男性が引き上げようとしたが、女性の手の皮がずるりとむけ、乗せることはできなかったようだった。
数日たって鉄橋が復旧すると、途中では停車せず、浦上駅や長崎駅で乗り降りするようになった。
勤務明けで実家に帰っていた15日、大村駅の駅長室前で玉音放送を聞いた。泣き崩れる大人もおり、戦争に負けたことを知った。
<私の願い>
敗戦後、10月に国鉄を退職し、大村市の実践女学校に入学。諫早市の長崎青年師範学校も出て、小学校教師として働いた。戦争が起きると人の命はたやすく翻弄(ほんろう)され失われてしまう。兄もいたが1944年、南方で戦死したと通知を受けた。戦争だけは起こしてはならないと強く願う。