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私の被爆ノート

皮膚はがれた兵隊さん

2013年6月27日 掲載
南 八重子(81) 南八重子さん(81) 爆心地から2・2キロの長崎市稲佐町1丁目で被爆 =佐世保市須田尾町=

当時、13歳で県立長崎高等女学校2年。父母と兄、2人の妹と稲佐町の商店街にある3階建ての家で暮らしていた。あの日は学校が休みで、警戒警報は解除。半袖ブラウス姿で妹たちと1階の居間にいた。

「何か落ちたぞ」。近所の歯科医のおじさんの声が聞こえた。裏庭の防空壕(ごう)へ向かおうとした瞬間、窓の外が明るくなった。とにかく大きな音がして、妹をかばうように伏せた。長さ1センチぐらいのガラス片が首の後ろに刺さった。

建具は倒れ、吹き飛んだ衣類が梁(はり)にぶら下がっていた。靴も見当たらない。はだしのまま、海岸の巨岩をくりぬいた防空壕へ母、きょうだいと走った。建物の残骸を飛び越えたりしたが不思議とけがはしなかった。倒れた人が「水、水」と言っていた。

壕にはおにぎりが届けられていたが、暑さのためか臭くなっていた。母たちが子どもにそのまま食べさせられないと、外で火をおこし、おかゆにした。空襲警報が発令されるたびに水を掛けて火を消し、また火をつける様子が印象に残っている。

夕方になると皮膚が全部はがれ、服がぼろぼろの兵隊さんが一人、また一人と稲佐山の方から歩いてきて壕の前を通り、下っていった。木の枝みたいなものをつえ代わりに、下を向いてただ生きているというような状態。母に「山の中で私たちを守ってくれていたんだよ」と教えられたが、子どもながらに「兵隊さんはもう助からない、かわいそう」と思った。

その後は八幡町の知人宅に身を寄せた。多くの人が亡くなったと聞き、怖かった。「長崎には90年は草木が生えない」などのうわさが流れ、終戦後は一家で長崎を離れることに。佐世保に行こうとしたが長崎駅で「佐世保では米兵に女、子どもは殺される」とデマを聞き、急きょ佐賀へ。6年過ごした後、佐世保で結婚した。

<私の願い>

二度と戦争をしてはいけない。戦争で全てをなくした。当時は戦いに備え、なぎなたの稽古などを真剣にしていたが、後から考えれば、ばかみたいなことで、勉強ができなかった。これから育っていく子どもたちのためにも平和がいい。原爆は使ってはいけない。原子力発電所も造らない方がいい。

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