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私の被爆ノート

桃色に染まった青空

2013年6月20日 掲載
坂井 昭(81) 坂井昭さん(81) 爆心地から3・0キロの長崎市今魚町(現・魚の町)で被爆 =長崎市岩川町=

青空が一瞬にして桃色に染まった。「爆弾だ」。本能的に目と耳をふさぎ、室内に逃げた。

当時13歳、旧制県立長崎中の2年生。両親、姉と4人で暮らしていた。

8月9日は朝から空襲警報が発令されたため登校せず、自宅の縁側であおむけになり空を眺めていた。「もうすぐ昼飯だな」。その瞬間だった。

意識を失ったのか、爆音を聞いた記憶はない。目が覚めて辺りを見渡すと、爆風で自宅も隣家も四方の壁が壊れ、電車通りが見えた。

家族は皆、助かった。町内会長だった父は住民の避難を考えていた。諏訪神社近くの「丸馬場の崖」と呼ばれる場所では、朝鮮人たちが以前から住民の避難用に横穴を掘っており、父から「何メートル掘れたか見てきてくれ」と命じられた。確認に行くと、朝鮮人が4人ほど全身に大やけどを負い、苦しそうに倒れていた。暑さから裸で作業をしていたのだろう。近所の女性たちが、大きなうちわでやけどの背中をあおいでいたが、うめき声を上げるだけだった。

午後3時すぎ、浦上方面から大けがを負った人たちが中島川沿いに逃れてきた。「おい、坂井君か」。小学校の同級生ヨシダ君だった。全身を包帯で巻かれ、すぐには分からなかった。「大変だったな」。そう声を掛けて見送った。ヨシダ君は2、3日のうちに亡くなったらしい。

その後は、県庁の火事が燃え広がって町内にも迫り、消火活動に追われた。陸軍兵が手伝いに来たが、いつの間にかいなくなった。なすすべなく燃え盛る炎を見詰めた。

その後の記憶は途切れている。11日夜、姉と二人で父の古里・佐賀の神埼まで疎開することになり、長崎駅に向かう途中、死体の山の上に立ち、銃剣を構える日本兵を見た。何を見張っていたのだろう。爆風と火災で、辺りは何もなくなっていたのに。

<私の願い>

戦争があったから原爆が落ちた。戦争はもう嫌だ。“自分だけでも生きよう”とみんなが必死だった。動物的な本能むき出しで何でもできてしまう、そんな時代だった。経験談を話しても、若い人に実感はないだろう。ただ、少しでも若者との隔絶をなくし、平和な世が続くことを望んでいる。

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