町田 吉雄
町田 吉雄(73)
町田吉雄さん(73) 爆心地から3・3キロの要町(現在の出島町)で被爆 =雲仙市千々石町丁=

私の被爆ノート

突然の光と同時に爆音

2013年6月13日 掲載
町田 吉雄
町田 吉雄(73) 町田吉雄さん(73) 爆心地から3・3キロの要町(現在の出島町)で被爆 =雲仙市千々石町丁=

当時6歳。長崎市要町(現在の出島町)で、父が木造2階建ての旅館を経営していた。1階に両親と妹の4人で居住。旅館には中庭があり、「明神さま」と呼ぶ社もあった。

当日は朝から暑く、中庭に面する縁側で上半身裸になって1人で過ごしていた。突然、ピカッとものすごい光が降り注ぎ、周囲の明るさが一気に増した。ほぼ同時に「ドカーン」と爆音がして、建物がガタガタ揺れた。

書斎のふすまが開き、出てきた父が私を抱えて、風呂場へ駆け込んだ。旅館の広い空の浴槽に2人で入り、内側から木製のふたを閉じ、じっと外の様子をうかがった。

しばらくたって風呂場を出た。外で過ごしていてあわてて中に入ってきたらしい母、妹と合流。4人ともけがはなかった。宿泊客はいなかったので、現在の長崎市民病院(新地町)辺りにある防空壕(ごう)へ、座布団で頭を守りながら向かった。

壕までの道では、体中にガラスの破片が刺さっている人がうろうろしており、一体何が起きたのかと驚くばかりだった。

壕に着くと、うめき声を上げる老若男女で既にいっぱいだった。入り口付近に腰を下ろして、ぼうぜんとしていた。次から次に人が逃げてきたが、満員で中に入れないと分かると他の壕を探して、またどこかへ向かっていった。

夕方、旅館に戻った。窓ガラスのほとんどが割れ、家具が散乱していた。このままでは生活できないと、翌朝早く、祖父母が暮らす南高千々石町(現在の雲仙市)へ両親が引く荷車に乗せられて出発した。

県庁近くでは建物の焼け跡が広がる中、頭や肩を包帯で巻いた人が歩いていて、地獄を見ているようだった。

千々石には夜遅くに到着。数日を過ごした。年末には旅館を再開した。

<私の願い>

被爆者として必要なのは「あのような大惨事を二度と繰り返してはならない」と声を大にして訴え続けること。被爆者が高齢になり、亡くなっている現状を見ると、平和運動が下火になりつつあるのではとの思いがある。子どもたちに明るい未来を継承できるよう、風化させない努力を続けたい。

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