あの瞬間、熱風を受けたことはかすかに覚えている。ただ、光や爆音の記憶は一切ない。吹き飛ばされ、しばらくその場に倒れていたのだろう。気が付くと景色は一変。「爆弾が落とされたんだな」。そう考えながら、走りだしていた。
当時16歳。香焼北端の蔭ノ尾にある長屋で、姉夫婦や親戚など10人くらいで暮らしていた。船で大波止まで渡り、上野町の長崎工業学校へ通学。8月9日は、報国隊として平戸小屋町の三菱電機長崎製作所に向かう予定だったが、友人と元船町付近で遊んでいた。
一緒にいた友人がどうなったかは知らない。無我夢中。蔭ノ尾へ戻るには、深堀から船に乗るしかなかった。ひたすら、走った。ただ生きることに必死だった。「よく生きてた」。家で待つ姉が涙で迎えてくれた。
翌日、当時の長崎医科大付属病院に入院中だった遠縁の女性を捜すため、親戚数人と船を出し、大波止に渡った。五島町付近に差しかかった時、見覚えのある人があおむけに倒れていた。波止場で毎日、鉢巻き姿で荷物の積み降ろしをしていた気の優しいおじさん。目玉が飛び出し、死んでいた姿が、今も脳裏に焼きついている。
ようやくたどり着いた病院の床は、まだ熱を帯びていた。コンクリートの壁は崩れており、女性が入院していた2階に向かいながら「助かるような状態ではない」と感じた。部屋の隅に吹き飛ばされている多くの遺体。3日間通い、その中からやっとのことで見つけ出した。変わり果てていたが、発見できた安堵(あんど)感が大きかった。
20歳の時、銅座町で野菜の露店販売を始めた。そして浜口町に青果店を構え、50年以上がたった。「感謝の気持ちを忘れてはいけない。それは食べ物に対しても。人間は生かされているのだから」。その思いはずっと、変わらない。
<私の願い>
世界中の誰もが争い事を望んではいない。根底にあるのは人間の欲。勝者の言い分が正しいことになってしまう場合もある。若い人たちには先人がどう生きてきたのか、なぜ戦争が起きたのかという真の歴史を学んでほしい。正しい認識を持つことが世界と手をつないでいく第一歩になるはずだ。