小学校の運動会では、駆けっこでいつも1番。運動が大好きだった。自宅は新地町で、家族は両親と姉、弟3人。仲が良かった。
飽の浦国民学校に5年生まで通ったが、空爆を避けるため中華料理店を営む父を残し、母らと転居を繰り返した。本原町の木造平屋に疎開。8月9日を迎えた。
当時11歳。家族で枯れ木を拾いに裏山に登っていた。私は赤白の縦じまのワンピース姿。突然、見たこともない光に襲われ、訓練通り親指で耳、残りの指で目を押さえた。倒木が後頭部に当たった。ワンピースは真っ赤に染まった。痛みは覚えていない。
家族で近くの防空壕(ごう)まで避難する道のりは地獄だった。見渡す限り無数の死体。「ごめんね」と叫びながら黒焦げの死体の上を歩いた。そうするしかなかった。あの光景を忘れることはできない。壕に着くと母は、全財産が入った風呂敷包みを裏山に置き忘れたから戻るという。「行かないで」。泣いて頼んだが行ってしまった。
壕に帰ってきた母を見て緊張の糸が切れ、意識がもうろうとした。母は「寝たら死ぬとぞ」と何度もほおをたたいてくれた。母が生かしてくれたんだと思う。
10日午後、父が新地町から西山を越えて本原町の壕に迎えに来た。涙を流し再会を喜んだ。ほっとしたのか体のだるさと強い痛みを感じ始めた。西山を越え、自宅に近い壕で生活。病院と行き来する日々を過ごすうちに終戦を迎えた。
米兵が侵攻してくると心配した両親の判断で、父以外は五島の岐宿町水ノ浦へ疎開。強い頭痛と吐き気、鼻血に加え、傷口にうじがわいた。病院が遠かったこともあってつらかった。長崎に戻り、活水女学校に進学後も吐き気、下痢が続いた。卒業したらパーマをかけたいと思っていたが、頭髪はボロボロと抜け落ち、薄くなっていった。
ただ、悪いことばかりではなかった。友人と一緒に過ごす何げない毎日が、戦争がない平和の喜びを教えてくれた。幸せな青春時代は、今の私の人生を支えてくれている。
<私の願い>
平和への関心が薄れているのが一番怖い。戦争を知らない人に戦争の怖さを伝えたい。今の若い人に平和の大切さとは何かを知ってほしい。テレビを見れば世界のあちこちで戦争が続いている。胸が痛い。世界中で私たちの被爆体験を知ってもらって、平和を大事にしようという気持ちを持ってほしい。