原爆投下から2日後。長崎駅方向から式見へ家族で避難する途中の浦上付近。遺体があちこちに転がっていた。小走りで通り抜けようとしていた時、性別すら分からない黒焦げの小さな遺体の胸の辺りを踏んでしまった。積雪に足を入れたような「わさっ」という感触。申し訳なさが募った。
当時は西坂国民学校の6年生。長崎駅近くの借家に父母、姉2人のほか、いとこ2人と暮らしていた。あの日は、姉のマツヱと台所で昼食の準備をしていた。
ブーン。「あっ、(味方の)友軍機が来た」。マツヱが興奮気味に外に飛び出し、10~15秒後。ピカピカピカピカ…。大きな雷が間近で続けて落ちたような閃光(せんこう)の嵐。反射的に目と耳を押さえた。静まるまでの数十秒間は覚えていない。気付くと真っ暗だった。
自宅は倒壊しなかったが「延焼するかもしれない」と直感。いとこの照子と一緒に母に付いていき、さまよった。マツヱらとは、はぐれた。
ガラスが顔に刺さった人、頭から血を流す人。中町教会の近くから石階段を駆け上がった。高台の畑に腰を下ろすと、下手の火災の熱を感じた。周囲は煙っていた。その夜は野宿した。
一夜明け、恐る恐る市街地に下りた。建物はほとんど焼け落ち、焦げた人、人、人。強烈な異臭に耐えながら、NHK長崎放送局そばにあった防空壕(ごう)に行き、姉の節子や父と再会した。
11日、5人で母の実家がある式見を目指した。大変な行脚だった。道路にはがれきが散乱。転がる遺体を幾度か踏んだ。浦上川にかかる橋の欄干には、多くの人がもたれ掛かったり、川に身を乗り出すような格好で亡くなっていた。
同居していたいとこの光憲は、学徒動員先で行方不明になっていたが後日、生きていることを知った。マツヱとは数カ月後に再会した。(原口司)
<私の願い>
あの日の惨状は地獄そのもの。だが、被爆者の訴えは十分に届かず、核の脅威は増すばかりで歯がゆい。核兵器を持つからこそ互いにけん制し、争いの火種になる。
日本政府が核兵器廃絶に弱腰になるのもおかしい。唯一の被爆国として、国際的な場でしっかり訴えるべきだ。