今まで見たこともない強烈な光だった。天が破れてしまったのではないかと思った。得体の知れない恐怖におびえながら、防空壕(ごう)まで無我夢中で走った。
古里の五島を離れ、長崎市の福田の知人宅に暮らしながら、浜口町の三菱長崎工業青年学校に通っていた。当時15歳。学校では、鉄をやすりで削って四角い作品に仕上げることなどを教わっていた。飽の浦の三菱重工長崎造船所で実習もあったが、さまざまな機材を扱い、とても難しかった。
あの日も造船所で実習だった。警戒警報が出されていたので朝から近くの防空壕に身を寄せた。数時間後、警報が解除され、作業場に戻ることに。造船所の2階で、実習の学生と従業員を合わせ、数百人が作業に当たっていた。真夏の暑さで、上半身裸だった。下を向いて黙々と鉄材をやすりで磨いていた時。
稲妻が走った。思わず、目と耳をふさいでその場に伏せた。しばらくして爆風が屋内になだれ込み、粉じんを巻き上げて何も見えなくなった。周囲の人と一緒に、急いでその場から逃げ出した。途中、煙を吸い込んでしまい、息がしづらくなってしまった。大きな板が倒れて数人が下敷きになっていたが、みんな気付かずにその上を走って逃げた。やっとの思いで防空壕にたどり着いた。
3、4時間たった後、外に出てみると、県庁付近の街が燃えていた。福田までは歩いて帰った。大きなけがはなかったものの、その日の夜は「光」を受けた背中が熱くて眠れなかった。投下されたのが原子爆弾だったとは知るはずもなかった。
翌日、浦上の親戚の女性を捜しに出掛けた。めちゃめちゃに壊れた建物や止まったままの電車、道にひっくり返った馬も見た。街は跡形もなかった。数日後、女性はがれきの下敷きになって亡くなっていたと聞いた。その後、五島に戻り、大工になった。
<私の願い>
投下して数秒後には辺りを火の海にしてしまう原爆はむごい道具。人間のすることではない。今も米国は核実験を続ける。こんなひどい目に遭ったわれわれの思いを無視しているのでは。最近、汚染水漏れの問題など原発事故の報道を見て、原発も原爆と同じではないかと感じている。