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私の被爆ノート

けが人手当てに無力感

2013年4月18日 掲載
開田 幸子(82) 開田幸子さん(82) 大村海軍共済病院で救護被爆 =大村市桜馬場1丁目=

1945年4月から看護学生として大村市諏訪地区にあった大村海軍共済病院で実習を積み、手術器具の洗浄やお産の手伝いなどをしていた。

当時14歳。妊婦が受診のためほどいた腹帯を、きれいに巻いてあげている時だった。「ドカーン」。突如、遠くで響く音がした。慌てて外の広場に出ると、長崎の方に大きなきのこ雲が見えた。「何やろか」

午後5時ごろまで働き、病院敷地内にあった寮に帰って寝た。午後9時か10時ごろ、長崎から運ばれてくるけが人に対応するため起こされた。制服にエプロン、帽子を着けて広場に集められた。長崎の方が真っ赤に燃えているのが見えた。

廊下には見える範囲だけで何十人ものけが人が横たわっていた。服はぼろぼろで、あちこちからうめき声が聞こえた。

10歳ぐらいの女の子は、首の辺りに汚れた布を巻いていた。首の皮がそげていたのかもしれない。目は開いていたが無言。ぐったりしていた。母親と思われる人が「熱があるんですよ」と言った。かわいそうで何とかしてあげたいが、看護学生にできることは限られている。自分の無力さを感じた。水にタオルを浸し、肩の辺りを冷やしてやるのが精いっぱいだった。

先輩の看護婦から、顔に血が付いている中年の男性に注射をするよう指示を受けた。医師も看護婦も忙しく手が回らないようだった。これまでの診察風景を思い出しながら腕に注射。初めての経験で手が震えた。へとへとになり寮に帰ったのは空が白んでからだった。

少し寝て病院に戻ると、廊下のけが人はいなくなっていた。床の血や汚れを雑巾で拭いた。腐ったような嫌な臭いが漂っていた。

あの時、いなくなったけが人について、先輩から最近、体に刺さったガラス片やうじ虫を除去したり手術したりしたが多くは助からなかったと聞いた。

<私の願い>

同じ人間が殺し合いをする戦争は絶対に駄目。憲法が改正され、戦争ができる国にならないかも心配だ。せっかく生まれてきたのだから、命を無駄にせず、みんなが楽しく過ごせる社会であってほしい。核兵器に限らず原発もすぐにつぶしてほしい。多少、不自由な暮らしになっても構わない。

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