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私の被爆ノート

ピカーッと強い光走る

2013年4月11日 掲載
山田 一美(79) 山田一美さん(79) 爆心地から1・8キロの長崎市昭和町で被爆 =長崎市旭町=

長崎市昭和町の自宅近く。「落下傘だ」。浦上方面の澄み渡った空を見上げてそう話す大人たちがいた。よく見えなかったので、その場を離れて歩きだし、岩陰に入った瞬間。当時12歳、西浦上国民学校の6年生。

ピカーッと強い光が走った。とっさに目と耳を両手でふさいでしゃがみ込んだ。熱気とピンクの光に包まれた。

やがて熱が去り、目を開けると眼前のわらぶき屋根の家が燃えていた。先ほど空を見上げていた大人たちが、服に付いた火を消しながら逃げてきた。近くにいた牛が暴れ、道の真ん中をぐるぐると回っている。焼夷(しょうい)弾が落ちたのだと思った。

急いで帰宅すると、自宅がつぶれていた。向かいの川で先ほどまで泳いでいた友人4、5人が石の堤防にうずくまっている。「山田、助けてくれ」。声を掛けられたが何もできず「待っとけ。後でくるけん」と言い残してその場を去った。

一緒に暮らしていた祖母と叔母は無事だった。自宅隣の防空壕(ごう)に避難。そこには同級生の兄もいた。裸で川を泳いでいたらしく「寒か。痛か」とうめいている。背中を見ると皮膚が剥げ、真っ白になっていた。皮膚は腰の辺りで丸まってぶら下がっていた。

何か落ち着かず、3人で外を歩き続けた。夕方のように薄暗かった。家が何軒か火事になっていたが、消す人は誰もいなかった。

浦上の方から大勢の人が歩いてくる姿が見えた。みんな顔は真っ黒で服はぼろぼろ。けが人を肩に担いでいる人もいた。なぜか全員が無言。もくもくと歩いていた。兵器工場の工員らしき男性2人が話し掛けてきた。「坊や、この敵を討ってくれよ」。1人は目玉が飛び出ていた。列は途切れることなく続いていた。

幸い、自宅の3棟のうち1棟が倒壊を免れたので、そこで暮らし続けた。

<私の願い>

たった1発の原爆投下で、老若男女問わず、多くの人が亡くなった。戦後も、うわさが飛び交い、生き残った私も放射線の影響で死ぬのではないかと恐怖感に襲われ続けた。核爆弾は絶対に使ってはいけない。若い人には、平和な世の中のありがたみをかみしめてもらいたい。

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