松本 政勝
松本 政勝(83)
爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆

私の被爆ノート

必死に歩き救護列車へ

2013年3月28日 掲載
松本 政勝
松本 政勝(83) 爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆

島原市内の国民学校高等科を卒業し、三菱長崎兵器製作所大橋工場で出来上がった魚雷部品の検査係をしていた。戦況は悪化の一途をたどり、作業の傍ら、双眼鏡で敵機の来襲を見張るのも私の担当だった。監視所は作業場から数百メートル離れた鉄筋コンクリート3階建てビルの屋上にあった。

あの日も警戒警報が発令されたため、監視所で空を注視していた。ブーンと、どこからかエンジン音が聞こえ、室内のスピーカーが「島原上空を北進中の敵機は長崎上空に向かいつつあり…」と非常事態を伝えたのを覚えている。突然、激しい爆風で体ごと吹き飛ばされ、意識を失った。

気が付くと、全身にやけどを負い、額からは血が流れていた。腰のタオルで止血し、屋上から階下へ急いだ。部屋の中は火の手が広がり、あちこちから「助けて」という声が聞こえたが、自身が倒れそうで、どうしてやることもできない。外に出ると、敷地内は焼け焦げて息絶えた人が無数に転がっていた。

寮があった坂本町方向は一面、火の海。痛い足を引きずって線路上を反対方向に必死に歩き、救護列車に乗り込むことができた。その日の晩は諫早市内の女学校でけがの手当てを受け、婦人会の方々が作ってくれたおにぎりを2個、むさぼり食った。あのおいしさを忘れることができない。

翌日、島原鉄道で故郷に帰ったが、列車内では血みどろのランニングシャツ姿の私に乗客たちは驚くばかり。家にたどり着くと高熱に倒れ、髪は抜け落ち、鼻血が止まらなかった。意識がもうろうとした状態が年の暮れまで続き、ようやく日常生活が送れるようになったのは3年ぐらいたってからだったと思う。

あの日、監視所ではなく、爆心地に近いいつもの作業場にいたら即死だっただろう。額にはあの時の傷痕、右わきの体内にはガラス片が今も残っている。

<私の願い>

当時は勉強したくてもそれどころではなく、おなかがすいても食べる物はろくになかった。今を生きる若い人たちは、この平和と豊かさが多くの犠牲者の無念の死の上にあることを忘れないでほしい。核兵器は決して許されるものではない。平和の尊さをかみしめ、命を大切にしてほしい。

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