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私の被爆ノート

体の異変におびえ

2013年3月14日 掲載
石田マツコ(83) 石田マツコさん(83) 爆心地から3・4キロの長崎市東浜町で被爆 =対馬市厳原町国分=

「お国のために頑張ってこい」。つらい旅は父の言葉から始まった。

対馬南西の阿連地区の自宅に、女子挺身(ていしん)隊として本土で働くよう命じる書簡が届いたのは15歳の春だった。

配属されたのは大村市の軍需工場。竹やりで戦う訓練を1カ月受け、旋盤技術を学んでから工場で働いた。その年の秋に大規模な空襲に遭った。防空壕(ごう)へ急いだが人がごった返して入れず、仕方なく近くの溝に飛び込んだ。爆撃で大きな石が背中に落ちてきたが無事だった。溝からはい上がってみると壕は出入り口が崩れ、多くの人が生き埋めになっていた。

その後、長崎市飽の浦町にあった三菱長崎造船所の工場へ移った。あの日、私は今の浜町の近くにあった寮の2階で、夜勤に備えて横になっていた。突然、ごう音が響き、爆風で部屋中のガラスが割れた。何が起きたのか理解できないまま同僚と山に向かって逃げ出し、茂木町で野宿した。

数日後に寮に戻ると、工場近くの三菱病院で救護を手伝うよう指示が出た。病院へ向かう途中、浦上川河口付近の岸に真っ黒な遺体が並び、道端には腹が風船のように膨らんだ牛や馬の死骸が転がっているのを見た。地獄のようだった。

病院は全身にやけどを負った人で満杯だった。「水を」「水を」と頼まれ、一口飲ませると力尽きていった。負傷者の顔にわくうじを取り払うのも仕事だった。

数日後、帰郷が許された。寮から支給された一升分の米を抱え、列車で博多へ。船で対馬へ渡った。島では「長崎全滅」と報じられ、家族は私が死んだとあきらめていた。自宅に戻ってきた私を見て、母はその場で泣き崩れた。

幸せな生活は長くは続かなかった。しばらくして頭部がかゆくなり、髪の毛がぼろぼろと抜け落ちるようになった。体の異変におびえる日々が始まった。

<私の願い>

戦争で何度も死にかけた記憶は一生忘れられない。原爆の後遺症にも悩まされ、つらい思いをしてきた。戦時中と比べ今の暮らしは本当にぜいたくで、それが当たり前と思っている人が多いように感じる。若い人たちには平和のありがたさをかみしめ、二度と戦争を起こさない努力を続けてほしい。

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