白いシャツがたなびく軒先。洗濯を終え、2階の部屋でのんびりしていた。外から聞こえる飛行機の爆音。「まずい」。慌てて窓から顔を出し、干していたシャツを握りしめた。シャツが揺れて目立つのを避けるためだ。上空にキラキラ光る何かが見える。バーンと音がしたかと思うと、爆風で吹き飛ばされ、畳の上にたたきつけられた。
上五島の国民学校高等科を卒業後に島を離れ、長崎市飽の浦町で寮生活を送りながら、養成工として三菱長崎造船所の製缶工場(同町)で働いていた。当時17歳。あの日は寮の当直だったため工場には行かず、寮の自室で過ごしていた。
爆風に飛ばされた後、一目散に近くの防空壕(ごう)へ。けがはなかったが座ったまま、ただ時間が過ぎるのをじっと待った。
夕方になり、どんな立場の人か忘れたが寮生から「ハタダ先生」と呼ばれる男性から避難の指示があった。仲間と寮から徒歩5分ほどの山あいの細道に移動した。
すると、米軍機が細道の上を低空飛行してきた。機銃を出しているわけでもなく、焼夷(しょうい)弾を落とすわけでもない。偵察のためだろうか。「よくここに避難していたことが分かるな」。そう思いながら、みんなと縮こまった。
夜も更け、寮に戻った。まちを焼き尽くす炎のためだろうか。長崎の中心部の空が夜になっても明るかった記憶がある。「日本は負けるな」。そう感じていた。
翌日だったと思う。爆心地付近へ向かった。稲佐橋を通るとき、橋の下の石垣に、首から上だけの遺体が流れ着いていた。被爆後、初めて見た遺体。涙がこぼれた。爆心地付近は一面が焼け野原で、どこに何があったのか全く分からない状態だった。
15日。工場で玉音放送を聞いた。くやしくて泣いた。「もう日本はおしまいだ」と絶望した。
<私の願い>
庭にカシの木を植えている。枝や葉を剪定(せんてい)し、きのこ雲に見えるようにしている。日常生活では原爆のことを忘れがちだが、決して忘れてはならないという思いからだ。原爆を使えば、何もかもめちゃくちゃになる。被爆者は長年、健康被害に苦しむ。原爆はなくしたほうがいい。