被爆当時に長崎医科大の第一外科教授だった父、調来助が残した日誌を読み返すたび涙があふれる。
私は当時14歳、県立長崎高等女学校の2年生だった。両親と祖母、兄2人、妹2人の8人暮らし。4月に長崎市山里町(現平和町)の自宅から滑石郷(現北栄町)の民家に疎開していた。
あの日、父は医科大、長兄は三菱長崎兵器製作所大橋工場に出掛けていた。同大付属の医学専門部に通う次兄と家を出た私は学校に行かず途中で引き返した。それが次兄との最後の別れとなった。
上の妹と縁側で話をしていた時、青白い光に襲われ、爆風で窓ガラスや障子が吹き飛んだ。母らと近くの防空壕(ごう)へ。「長崎に大きな爆弾が落ちた」と聞き、父や兄が心配だった。
昼すぎ。長兄が破れたワイシャツをヒラヒラさせて歩いて帰宅。背中一面にやけどを負っていたが、元気そうで、母は「生きてて良かった」と種子油を塗って介抱した。父の同僚か誰かから「調先生は無事でけが人の治療に当たっている」と聞き、胸をなで下ろした。
翌日の夕方、父が帰宅。長兄は次第に容体が悪化し、寝たきりの状態に。「こんな姿になって申し訳ない」と涙ながらにわびていたと後から聞いた。1週間後、眠るように息を引き取った。
8月下旬、消息不明の次兄を捜しに家族で医科大に向かった。周辺は廃虚と化し、木造校舎は焼け落ちていた。手掛かりを探していると下の妹がズボンの焼け残りを見つけた。ホック部分の裏側に「山本」と書かれている。いとこからもらった学生服だった。いちるの望みが絶たれ、近くにあった骨を拾って帰った。
父は原爆の後遺症に苦しんだが、けが人の治療や大学再建に尽くした。口には出さなかったが、長兄、次兄の死はつらかっただろう。8月9日の私の誕生日は2人の兄の冥福を祈る日となった。
<私の願い>
父は生前、出身地の福岡県内の小学校に本を贈っていた。父の母校で、児童が今でも毎年、平和学習で長崎を訪れてくれる。1発の原子爆弾で一つの都市が壊滅的な被害を受けた。長崎で起こったことを二度と繰り返してはならない。父の思いを母校の子どもたちが受け継いでくれていることをうれしく思う。