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私の被爆ノート

体に無数のガラス片

2013年2月22日 掲載
吉村 光子(89) 吉村光子さん(89) 爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆 =西彼時津町西時津郷=

三菱長崎兵器製作所大橋工場の給与課職員だった。当時22歳。あの日も普段と同じように、2階建ての建物の1階経理室で職員約80人と勤務。その日の出勤者の数を確認し、給与計算のため、そろばんと格闘していた。

午前11時2分、突然何色かも分からない強烈な光が顔に当たり、熱を感じた。向き合って作業していた職員と「何だろうね」と言葉を交わした瞬間、バーンという激しい爆発音と同時に爆風に襲われた。窓ガラスの破片が降りそそぎ、反射的に机の下に潜り込んだ。

立ち上がると「逃げろ」という男の人の声が響き、誰かに手を引かれ、近くの川に向かって走った。頭から血が噴き出る人、ちぎれた腕を支える人、体の半分ほど肉と皮がただれた人-。目に入る人は皆、全身が血で真っ赤になっていた。

給与課の女性と川の両脇に並ぶ防空壕(ごう)を回り、数カ所目で「入っておいで」と声を掛けてくれた中年女性がいた。ひざの上には血まみれの少女。「お父さんに電話をかけて」と少女は力なく繰り返していた。私はその手を握り「大丈夫。しっかりして」と声を掛けたが、手は次第に冷たくなり、数十分後に息を引き取った。

しばらくたって給与課の女性と工場に戻ると、建物は崩壊し炎が地を赤く、煙が空を黒く染めていた。門に寄り掛かった顔見知りの守衛に指摘されて、自分の体にガラス片が刺さって血まみれであることに初めて気付いた。不思議とそれまでは痛みを感じなかった。

諏訪神社近くの職員女子寮に帰ることにした。暗い山道を歩くたび、体に刺さった無数のガラス片とガラス片が当たり、カチカチと音を立てた。

たどり着いた寮は誰もおらず、夜を過ごせる防空壕を探した。ちょうちんを持った男の人が近づいてきたので声を掛けると壕に案内され、白米のおにぎりとお茶を出してくれた。あのおにぎりの味は忘れられない。

翌日から数日、爆心地近くの親類宅を訪ね歩くなどしたが焼け野原で誰も見つからなかった。

<私の願い>

現代に生きる子どもたちは、欲しいものや食べたいものが簡単に手に入ると思う。
だが戦前、戦中、戦後は食べるものも満足になかった。今があるのは「平和」だからということを忘れないでほしい。
どんな理由であれ、人を傷つける戦争やいじめは決してしてはいけない。

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