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私の被爆ノート

やけどの痛み耐え続け

2013年2月7日 掲載
野口 幸子(86) 野口幸子さん(86) 爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆 =長崎市三ツ山町=

三菱長崎兵器製作所茂里町工場で、魚雷の部品をやすりで磨く仕事に従事。19歳だった。「欲しがりません勝つまでは」と記した鉢巻きをして。班長で、班員の点呼確認などもしていた。

あの日は空襲警報が響き、数百メートル離れた銭座町聖徳寺下の防空壕(ごう)に避難。警報が解除され職場に戻り、点呼を終えたころ再び敵機襲来のアナウンス。またかと思って走った。紫のような光を浴びたが、それ以外は音も衝撃もどこで被爆したかも覚えていない。

爆風に飛ばされた記憶はある。壕には既に大勢逃げ込んでいた。女性が言った。「あんた、どうしたとね」。私の全身は真っ黒で顔も腕もやけどでただれていた。壕の外には黒焦げの死体。自分はよく生きていられた。

何日たったか。痛みをこらえるのに必死だった。体のうじを口に入れ、それがのどを伝う感触でひもじさを紛らわせた。自宅は今の銭座小の少し高台。母と弟2人が心配になり向かったが、近所の人から家の周りは火の海だったと聞き、座り込んだ。励まされ金比羅山中腹の畑に避難。立神の造船所で働いていた父が来ることだけを信じ、泥の上に寝っ転がった。

「幸子」と父の声がした。「幸子に似てるが顔も何も焼けただれてしまったな」。ぎゅっと抱き締めてくれた父は、母と弟を捜しに行こうとしたが、私の皮膚が父の服にくっつき、離れようとするとベラベラとはがれる。「置いて行ききらん」。結局、弟2人は生きていたが、母は焼けて顔かたちは分からなかった。

結婚はできた。夫は台湾の引き揚げ者で息子と娘を授かったが、夫はすぐ亡くなり結婚生活は数年で終わった。原爆の影響か息子は病で亡くした。父や弟にも先立たれた。

朝夕にマリア様に祈りをささげ、どうして私だけ残したのかと尋ねる。皆に一目会わせてほしい。でも一度たりとも夢に家族の誰かが出てきたことはない。

<私の願い>

戦争は嫌。もう誰もああいう目に遭わせたくない。父、母、弟、夫、息子に先立たれ、生きてきた。どうして残されたのか。何ができるのかは分からないが、人のために何かすることがあって私は残されているのだろうと思っている。

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