父が熊本県庁から長崎県庁へ転勤し、1年半ほどたったころだった。片淵に家族6人で住んでいた。戦争は激しさを増していたので、あの日は父と早朝から貴重品を木場の知人宅へ預けに行った。当時9歳。道中、空を飛行機が通過したが警報は聞こえなかった。父は農業が専門で帰り道に「治療薬に良いから」とドクダミを摘んだ。
自宅に戻り、ドクダミを新聞紙の上に並べていた時、爆音が響いた。びっくりして戸を開けると、まぶしい光が飛び込んできた。とっさに両手の人さし指と中指で目を、親指で耳を、薬指と小指で口を押さえて腹ばいになった。小学校で何度も教わった動作だ。
耳を押さえたため何も聞こえなかった分、起き上がって変わり果てた家の中を見た時の驚きは大きかった。全ての戸が外れ、向かいの家も丸見え。わが家に爆弾が落ちたと思った。家を飛び出し両親を探したが、いない。空は真っ黒で、太陽だけ血を流したように赤かった。恐ろしかった。
近くの防空壕(ごう)に避難。両親を待っていると、寺へ勉強会に行っていた妹3人と一緒に来た。みんな無事で安心した。周りの人のうわさ話で、大変なことが起きたと分かった。その日は壕で一夜を過ごした。 翌日、壕の外でぼんやり空を眺めていると、きらきらと光りながら落ちるものが見えた。一緒にいた青年たちが確認に向かった。数時間後、彼らが持ち帰ってきたビラには「日本国民に告ぐ。日本良い国神の国。一夜明ければ灰の国」などと書かれていたように記憶している。
原爆が落ちた地は100年は草木も生えないと言われていたが、2~3年後、父が仲間と浜口町でカボチャやイモを植えてみると、見事に育った。父や私は、その後何年間も激しい疲労感に悩まされ続けた。後遺症となる放射能の怖さを身をもって感じた。
<私の願い>
大学時は天文学を専攻した。原爆投下直後の空は真っ黒な雲と真っ赤な太陽で地獄かと思ったが、一方で空には多くの星がきらめく美しい表情もある。「人類を皆殺しにする核兵器は絶対許してはいけない」。そんなメッセージを込め、被爆地長崎で、平和をテーマに夜空の写真を撮り続けた。