当時6歳。浪平国民学校に入学したばかりで、長崎市浪の平町に住んでいた。近くに戸町トンネル工場や小菅修船場があったため、一帯は毎晩のように空襲の標的となっていた。夜中に空襲警報が響くたびに家族や近所の人と大浦天主堂近くの防空壕(ごう)に逃げ込んで、とても怖い思いをしていた。そんなこともあり、唐津に徴兵されていた父を除き、母と兄、妹の4人で諫早に疎開した。
8月9日は夏休みで、諫早の親類宅の2階に兄といた。飛行機の爆音が聞こえたので窓から空を見上げた。胴長の機体にプロペラが四つ付いたB29が飛んでいた。すると、長崎の上空で落下傘を三つ落としたのが見えた。「何か落としたばい」。そう兄と話した次の瞬間、灰色がかった光が目の前を流れた。「ドーン」という大きな音と共に、2階の戸袋が地面に落ちた。
午後1時ごろ、長崎市の空は赤と黒が混ざったような不気味な色に変わっており、近所の人が「何があったのだろう」と話していた。夕方、けが人たちが逃げてきた。「爆弾が落とされ長崎は全滅。ほとんどの人が死んだのでは」と聞かされた。母親は同市内に残っていた祖父母らの心配をしていた。しかし、汽車も走っておらず、安否を確かめることはできなかった。
その後、1週間くらいして母と汽車で市内に向かった。浦上駅で窓の外を見ると、長崎医科大付属病院にあった煙突が、くの字に曲がり、八千代町付近のガスタンクは骨組みだけになっていた。荒れ果てた長崎駅から、歩いて浪の平町の自宅に向かった。祖父母らは無事だった。
父も帰ってくることができたが、浪平国民学校は米軍のキャンプ地になっており、グラウンドにはかまぼこ形の兵舎が並んでいた。私は隣町の大浦国民学校に通うことになった。
<私の願い>
被爆者といえば、やけどやケロイドのイメージが強いが、放射能は体の内側をむしばんでいく。福島第1原発事故でも、放射能の影響が心配されている。原発がひとたび事故を起こせば被害を大きく広げることになる。核と人類は共存できないということを被爆者から強く訴えていきたい。