救護被爆
=諫早市東小路町=
できることは限られていた。薬らしい薬もなく、浴衣やさらしが包帯代わり。かまどの灰を一晩水につけ、その上澄みがやけどに効くからと、あるだけのバケツに用意して諫早国民学校(現在の諫早市役所本館)に向かったのは、8月10日朝だった。
教室には前夜から、けが人ややけどを負った人たちが長崎から運び込まれており、阿鼻(あび)叫喚の世界。焼けただれ、膨れ上がり、ガラス片が突き刺さった体で「水を、水を」とうめき声を上げていた。異様なにおいが鼻を突き、21歳だった私もあまりの醜さに体が震えた。
最初はウロウロするばかりだったが、私に子どもを託そうとするやけどを負った母親の姿を目の当たりにして、幼稚園の先生をしていたこともあり、できる限りの手伝いをしようと決心した。
水は絶対に飲ませてはいけないとの指示だった。しかし「死んでもいいから一口水を」とせがまれ、何度も救護班の本部に聞きに行き、そのたびにしかられた。指示通り、布に灰水を浸し患部に当てたが、突き刺さった無数のガラスに触れると断末魔の声を上げた。
翌日も早朝から看護をしたが、一晩で患部にうじが無数にわいた。チクチクと刺して痛がり、すぐに小さな缶と割りばしが用意された。1匹ずつつまんで取り除くが追いつかず、においで具合が悪くなった。
うじを取りながら負傷者の身内の名前を聞き出し、連絡所に何度も走った。早く身内が分かって駆け付けてくれますようにと念じながら。合間の警報も無視して必死の看護。するとうつろな目で、腫れ上がり、色の変わった唇から「ありがとう…」と。涙がこぼれ、水を飲ませてあげられたらとしきりに思った。
3日目は負傷者の数もかなり減った。残った人は熱と暑さで患部が腐敗するばかり。うじだけが増え続けた。私も夜から発熱。家に帰って寝込み、そのまま終戦の日を迎えた。
<私の願い>
諫早国民学校で救護した際の、教室のにおいや光景は一生忘れることができない。あの時、負傷者たちに水を与えていればと今でも悔やむことがある。核兵器と戦争は本当に残酷。あんな生き地獄が、今後二度とないことを願うばかりです。