当時17歳。徴用先の長崎市の三菱長崎兵器製作所大橋工場で、戦艦を機雷から守る防雷具を作っていた。
8月9日。昼食のため同僚たちと工場裏の畑のナスビをいくつか収穫。工場に戻り、焼いて食べようと溶接器具の火を付けた瞬間、気を失った。
意識が戻り、15メートルほど吹き飛ばされたことを知った。ガラス戸の破片が飛び散り、頭から血が流れていた。脇腹にガラス片が刺さっていた。なぜか誰もいない。何が起きたのか、分からなかった。シャツを包帯代わりに頭に巻き、外へ出ると焼け野原。逃げ惑う人たちが右往左往していた。
道ノ尾駅に向かった。途中、幅2メートルほどの小川の岸を歩いていると、同年代の少女が川を向いて無言で立ち尽くしていた。髪の毛や眉毛は焼け、服も着ていない。やけどで剥がれた上半身の皮膚が揺れていた。少女の視線の先には、川の向こう側の土手を下りてきて水を飲む人たちの姿。少女は少しでも動くと体に痛みが走るからなのか、微動だにせず、水を飲む人たちをただ恨めしそうに見つめていた。
川では、多くの人が力尽きて死んでいた。折り重なった死体を踏み台にして土手を上がっていく人たちもいた。みんな自らの命を守ることで精いっぱいだったが、その光景は地獄のようだった。
夕方、近くに止まった列車に乗った。車内はけが人ばかり。通路に太ももがえぐれた男性が横たわっていた。諫早で乗り換え、翌朝、島原半島の加津佐の実家に戻ると、近所の人が次々に被害の様子を聞きに来た。一人が「新型爆弾らしい」と教えてくれた。9日朝に大橋工場で見た新聞で、広島に新型爆弾が投下されたことは知っていたが、長崎も同じ目に遭うとは思いもしなかった。
終戦から十数年は、鼻血が頻繁に出た。白血球の値も低く、原因は不明のまま、不安な日々を生きた。
<私の願い>
現在の領土問題が原因となり、再び戦争が起きてしまわないか心配だ。もし起きれば、私たちが経験した原爆よりもはるかに大きな威力の核兵器が使われてしまうだろう。子や孫のためにも、平和的に問題を解決させて、二度と戦争を起こしてはならない。そして、核兵器をなくしてほしい。