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私の被爆ノート

次々亡くなる親戚に涙

2012年12月27日 掲載
永岡 敏昭(85) 永岡敏昭さん(85) 入市被爆 =北松佐々町市瀬免=

当時17歳。蒸気機関車(SL)の機関士を目指し、機関助士として国鉄に勤務していた。長崎機関区で機関士をしていた叔父は憧れの存在だった。国鉄試験に合格し、花形だった機関士の見習いとして一緒に働けるのが誇らしかった。

私は1942年4月に就職し、長崎機関区に配属。長崎市城山町にあった叔父の自宅に下宿していた。その後、叔父は早岐機関区の助役となり、私も同機関区佐々支区へ転勤となった。

9日早朝、叔父は、徹夜明けの非番公休で長崎の自宅に帰り、原爆の被害に遭った。佐々支区長から「君の叔父さんがやられたらしい」と告げられ、4日後の13日に長崎市に入った。

長崎駅から国鉄の線路沿いを徒歩で叔父の自宅へ。途中、浦上川の河原の凄惨(せいさん)な光景を見た。水かさが低い川に頭部が沈んだ状態で、死体がびっしり。地獄絵図だった。土手から河原に下れる階段などはない。死んだ人たちはどうやって川辺まで行ったのだろうと今でも不思議に思う。

叔父の自宅は城山国民学校(現在の市立城山小)の校舎が熱風をさえぎったためか、焼失こそしていなかったが母屋はぺちゃんこ。叔父と次女はすでに防空壕(ごう)の中で亡くなっていた。自宅の敷地で焼かれて骨になっていたのを、泣きながら拾った。

14日、長与駅の救護所で叔父の長女とおばを見つけた。2人の顔は皮がむけて真っ赤に焼けただれていた。ぼろぼろの服に皮膚がへばり付いた姿が痛ましく「頑張らんばよ」と声を掛けたが、おばは声も出ない様子で夕方、静かに息絶えた。長女も翌日に亡くなった。佐賀県武雄市の実家から出てきた父と棺おけに入れて運んだが、粗末な木で作られた棺おけだったため申し訳なかった。

もし、転勤していなかったら、自分の命もなかった。今でもそう思う時がある。

<私の願い>

30歳の時から地元の中学校で50年間、剣道の指導をしてきた。健康そのものと思っていたが5年前、胆管がんを患い、原爆の影響かと不安が心をよぎった。罪のない人たちが死んでいき、残った者も放射能の影響で苦しむ。戦争、核兵器の使用を絶対に繰り返してはいけない。

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