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私の被爆ノート

8年目、頭からガラス片

2012年12月21日 掲載
帆足 重利・下(82) 帆足重利さん(82) 爆心地から1・1キロの長崎市大橋町で被爆 =雲仙市瑞穂町西郷甲=

8月9日、住吉トンネル近くの畑で夕刻を迎えた。「暗くならないうちに道ノ尾駅に行こう」。背中にヤマアラシのようにすき間なくガラス片が突き刺さった先輩が言った。もう一人、先輩がいた。全身をやけどし、垂れ下がった上半身の皮膚の先端から透明の液がポタポタと落ちていた。髪は焼けてなくなり、顔全体もやけどして目も開けられない状態。この2人の手を握り、やっとの思いで駅にたどり着いた。

ホームは、けが人でごった返し、座り込んだり寝転んだりしていた。どれくらい待ったか。日没後、真っ暗になってやっと列車が来た。

到着した諫早駅にも、大勢のけが人が横たわっていた。3人で改札を出て病院に向かった。ところが病院の門の前で「患者がいっぱいでもう収容できない」と断られた。仕方なく駅に戻り、また列車に乗って大村の病院に向かうことにした。

大村駅に着くと、警察官や消防団、エプロンを着けた女性ら、多くの人がいて、駅前の広場に誘導してくれた。トラックの荷台に乗せられ病院へ。先輩2人は病院の奥に連れて行かれ、それきり会うことはなかった。後で亡くなったと聞いた。

私は案内された病棟で医師に頭や背のガラス片を取り除いてもらった。

10日早朝、「山手の療養所に避難する」と起こされた。16日まで療養所にいて被災証明書とわら草履をもらい、汽車で故郷の神代へ。母親は涙を流して喜んでくれた。

25日の夕方から嘔吐(おうと)や下痢で苦しみ、26日には太ももの内側に赤い斑点が出てきた。髪も抜け落ち、9月には昏睡(こんすい)状態に。長崎から戻ってきた多くの人が外傷もないのに次々と死んでいく状況があり、「次は帆足の番」とうわさされた。生き延び、ようやく外出できたのは12月だった。

毎年8月9日が近づくと悪夢にうなされた。町を焼き尽くそうとする爆撃機。「まだ戦争ばすっとか」。そう叫ぶ自分の声で目が覚めた。

夏になると右の後頭部付近からうみが出た。被爆から8年目。医師に勧められ、頭部の皮膚を切除する手術を受け、2~3センチのガラス片が出てきた。その後は悪夢を見なくなった。
<私の願い>

絶対に戦争を起こしてはならない。ユネスコ憲章の前文に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とある。憎しみが戦争の原因になり、原爆を使うことにもつながりかねない。心の中で平和への思いや愛を育てれば戦争は防げるはず。

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