1945年春、古里の神代村(現在の雲仙市国見町)を離れ、長崎市の三菱長崎兵器製作所大橋工場で働き始めた。お国のためというより、農業で苦労する母を助けたいという思いが強かった。
配属は設計課第二設計室。まだ15歳で見習い。8月9日、大橋工場本館3階の設計室で、紙に線を引く練習をしていた。
誰かが叫んだ。「爆音がするぞ。B29だ」。床に腹ばいになり両手で目と耳をふさいだ瞬間、赤い閃光(せんこう)が全身を通り抜けたようだった。背後で爆発の衝撃と猛烈な熱を感じた。無数のガラス片が、背中や後頭部に刺さった。
「避難するぞ」。周囲は暗く、声の方だけが明るかった。設計室のドアは壊れ、窓から出て外壁をつたって別室に脱出するしかなかった。外を見ると南側のほとんどの建物は破壊。いつもは建物で隠れている長崎港が見えた。窓から製図保管室に移り、ガラス片が飛び散った階段をはだしで駆け降りた。
外は地獄絵図。「おかあちゃーん」「わあーん」。わめき、泣き叫び、逃げ惑う人たち。近くの機械工場の鉄骨はあめのように、ぐにゃっと折れ曲がっていた。外に出てきた人たちも右往左往して、どうしていいか分からないようだった。
避難の途中、水田のあぜ道の土手に大勢の人が横たわっていた。みんな髪が焼け、帽子だけ燃え残った人もいた。だれも身動き一つしない。
避難場所で顔の傷から赤い泡を吹き出している人がいた。近くにいた先輩に言われヨモギを摘んで汁が出るまでもみ、先輩が傷口にあてがった。
住吉のトンネル工場に移動。きれいな水が入ったバケツがあり、近くにいた男性に「水を飲ませてください」と懇願した。男性は浦上川の水を飲んで死んでいく人を見てきていたため「飲んだら死ぬ」と止めてくれた。口をゆすいで吐いた。
トンネルは人があふれており、近くの段々畑の木陰で眠った。どのくらいの時間が過ぎたのか。吐き気で目覚め、苦く黄色いものを吐いた。
下の畑に視線を向けると、よちよち歩きの1歳くらいの男児がバケツの水をがぶ飲みしていた。男児は母親の元に行き、眠ったように見えた。私もまた横になった。しばらくして「タカシ」と泣き叫ぶ母親の声がした。その男児は亡くなっていた。