昼すぎ、ラジオが雑音混じりに伝えた。「大きな爆弾が長崎に落とされた」-。鷹島村国民学校の教員1年目で18歳。夏休み中だったので、島内の実家で聞いた。
長崎市の城山国民学校近くに20歳年上の県職員の兄の一家が住んでいた。兄は有家に単身赴任。妻のトメさんと長男で長崎医科大生の松男、次男で長崎工業学校3年の強、長女で長崎高等女学校1年の羽鶴江、同国民学校に通う次女サヨミと三女千鶴子、5歳ほどの三男健一の計7人。私は長崎師範学校に通っていたころに親しく交流し、大好きな家族だった。
トメさんと連絡が付かないまま10日、母に状況を見てくるよう言われ船に乗った。松浦から長崎市へ向かい11日朝、道ノ尾で列車を降ろされ、歩いて市内に入ると地獄と化していた。擦れ違う人は血だらけ。稜線(りょうせん)を頼りに進んだ。
兄宅では松男と強が、倒壊家屋の下敷きになって死んだ健一を火葬していた。胸が張り裂けそうで「健ちゃん、健ちゃん」と叫ぶしかなかった。
トメさんと娘3人もすぐ近くにいた。トメさんは背中の皮がむけて髪の毛は半分なく、羽鶴江は右目を押さえてうずくまり、千鶴子は肩に深い傷があった。サヨミだけ無傷だった。
その後、トメさんと子どもたちは鷹島に来た。母が麦ご飯の重湯を飲ませようとしたがトメさんと羽鶴江、千鶴子はすぐにもどした。嘔吐(おうと)物は黒や黄だった。
玉音放送が流れた15日。羽鶴江は「天皇陛下万歳」と叫んで亡くなった。その夜、トメさんはうなされ、健ちゃんの名を何度も呼んだ。翌日、無事だった兄が帰郷。再会したトメさんは間もなく息を引き取った。次の日、千鶴子が事切れた。
被爆者は就職で差別され、肢体不自由の子が生まれると風評も流れ、被爆を隠してきた。被爆者健康手帳は教員を退職後、取得した。
<私の願い>
身内が地獄の中をさまようように苦しみ死んだことを話したくなく、証言を拒んできた。亡くなったおいが夢に出てきて「恥ずかしいから話すな」と言われた。しかし、高齢で今話しておかなければとの思いに駆られ、一部始終を初めて語った。どの国も絶対に原爆を使ってはならない。