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私の被爆ノート

死体の山に涙こぼれ

2012年12月6日 掲載
内野マツヱ(83) 内野マツヱさん(83) 爆心地から1・2キロの長崎市茂里町で被爆 =西海市西彼町上岳郷=

当時16歳で、三菱長崎兵器製作所茂里町工場に勤めていた。父は同製作所住吉トンネル工場に勤務。岩屋町の社宅で両親、兄と暮らしていた。

茂里町工場2階で魚雷の部品をやすりで削っていた時、一気に床が崩れ落ちた。瞬間、思った。「爆弾にやられた。もう命はない」

目を開けると周囲は真っ暗。しばらくして煙幕のようなものが薄れ、がれきと化した工場の惨状が見えた。床が抜けた2階から尻もちの格好で5メートル以上落ちたはず。だが、その時は痛みを感じなかった。

工場には大勢の人が働いていたが、崩れた場内で見たのは組長と後輩の2人だけ。後輩は靴がないと泣きながら探していた。私は「また爆弾が落ちてくる」という恐怖におびえ、1人で工場を出た。銭座町の山の斜面を、四つんばいになり必死になって登った。工場に黒煙が上っているのが見えた。その後、立山の防空壕(ごう)に避難し、一夜を明かした。

翌朝、岩屋町の社宅に帰ろうと、市中心部を避けて浜平などを通る高台の道を歩いた。目覚町付近で、5歳ぐらいの男児の死体が転がっていて、思わず悲鳴を上げた。この後、松山町付近で見た光景は地獄絵だった。20~30人もの死体が山のように重なっていた。女性が多く、黒焦げや半焼けの人も。配給を待っていたのだろう。涙がこぼれた。

夕方、社宅に着いた時は放心状態。「キツネにつままれたような顔をしていた」と後で母から聞いた。それから半年以上、毎晩のように爆弾が頭上に落ちる悪夢に悩まされ、熟睡できなかった。

終戦後、母の兄を頼ってしばらく熊本の天草で生活。18歳のころ、父の実家の西彼町に引っ越した。父の農作業の手伝いをしたが、腰痛のため無理はできなかった。あの日の転落のせいで今も背骨が1カ所突き出たままだ。

20代前半には医者が驚くほどひどい蓄膿(ちくのう)症を患った。「原爆に遭いました」と伝え、骨に穴を開けてうみを出してもらった。つらい手術だった。

<私の願い>

たった一発の原爆で、多くの人が生きながら焼かれて死んだ。残酷すぎて腹が立つ。あの日見た地獄のような光景が、目に焼きついて離れない。核兵器は絶対になくさなければならない。恐ろしい戦争はもうこりごり。世界の国々が争わず、人々が仲良く平和に安心して暮らせるように願う。

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