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私の被爆ノート

一夜明け、運動場一変

2012年11月29日 掲載
山本美和子(85) 山本美和子さん(85) 爆心地から0・5キロの長崎市城山町1丁目で被爆 =長崎市横尾3丁目=

当時18歳で、城山町の城山国民学校内に置かれていた三菱長崎兵器製作所給与課に勤務。稲田町の自宅から通っていた。あの日は午前11時から同校敷地内の防空壕(ごう)掘りの当番で、壕の三つ並んだ入り口の一番左に向かった。

女の役目は、壕の奥で男が掘った土を入り口付近まで運ぶこと。壕は内部で一つにつながっていた。奥の作業は始まったばかりだったため、入り口で待っていた。

「ドカーン」と爆音がしたかと思うと爆風で土が宙に舞い上がり、同時に体が壕の奥へ吹き飛ばされた。入り口が土砂でふさがった。中は真っ暗。時間がたつにつれ、別の入り口から人が逃げ込んできているのが分かった。「苦しい」「水を飲ませて」とうめき声が響いた。もし真っ暗でなかったら、見ていられない惨状だっただろう。

一人の男性がみんなを励まそうと社歌のような歌を歌ったが、終わるとそのまま事切れた。どうしていいのか分からず暗闇の中で一晩過ごした。

翌朝、くずれた入り口の上部から外の光が漏れてきた。一緒にいた同世代の松尾さんという女性と外に出た。ほとんどの建物が崩れ去り、城山国民学校の校舎もぼろぼろ。向こうに浦上天主堂がポツンと見えた。運動場の死体があまりにも多くて、自分の感情がよく分からなくなった。

自宅の方角に松尾さんと向かう途中、浦上川で水を求めて死んだ人をたくさん見た。地面はガラス片が散乱。自分も松尾さんもはだしだったが、痛みさえ感じなかった。

松山町電停付近で私を捜していた父と再会。「どうもなかったか」。全身をなでて喜んでくれた。地面はまだ熱かった。父は履いていた地下足袋を貸してくれた。松尾さんは、落ちていた着物を裂いて足に巻き付けた。

興善町に住む松尾さんを父と送り、自宅に午前10時か11時ぐらいにたどり着いた。

<私の願い>

自衛隊を国防軍にしたいとする政治の動きがある。国防軍になると戦争につながりそうだから反対。核戦争になり、またヒロシマやナガサキが繰り返されてしまうのではないか。

被爆後、何年も飛行機の音だけで「またやられる」とおびえる日々が続いた。あんな思いは二度としたくない

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