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私の被爆ノート

地獄の光景に震え

2012年11月22日 掲載
福田 達(85) 福田達さん(85) 爆心地から1・5キロの長崎市家野町で被爆 =壱岐市石田町=

壱岐郡石田村(現壱岐市)出身で長崎師範学校本科2年、18歳だった。三菱兵器住吉トンネル工場に学徒動員され魚雷のかじを製作。夜勤担当で午後6時半から翌朝7時まで従事し、校舎近くの寮で寝起きしていた。

あの朝は、寮で寝ていた。突然、重みを感じ目が覚めた。寮が崩れ、がれきがのしかかっていた。身動きも取れない。「神様、仏様、お父さん、お母さん、助けて」

がれきが崩れ脱出。寮の中庭で生徒がちぎれた自分の右足を抱え死んでいた。校舎北側の防空壕(ごう)で友人に「大丈夫か」と声を掛けられ、初めて自分の腕の皮膚がめくれ頭や足から出血していることに気付いた。見渡すと黒や黄の煙が上がり地獄のような光景。震えが止まらなかった。

教官に「長与国民学校に行け」と命じられ、向かった。小川近くで高齢の男性がうめいていたので、水を手ですくい口元へ。3回目にすくった時、男性の喉がえぐれて飲んだ水が胸にこぼれているのが分かった。どうすることもできなかった。

同校体育館は100人ほどいて、おにぎりを2個もらった。今思えばそれまで何も口にしなかったことが内部被ばくを防いだのだろう。3日ほど後、帰宅の許可が出て、長与駅から列車で壱岐に近い佐賀県の唐津へ。港には壱岐の漁船が来ており、乗せてもらった。

出港してすぐグラマンが襲来。同乗の日本兵が銃を構えたので、反撃を恐れ「やめてください」と声を上げた。兵士は撃たず、グラマンは飛び去った。船は島陰に隠れ、日没後に出港した。

石田村の印通寺港に着。午前1時ごろ、実家の玄関で血だらけの私を小灯(ことぼ)しで照らした父は驚き、母は気絶した。後日、病院で麻酔なしで右足から8個のガラス片を除去。それから70日も通院した。医師の言葉が耳に残る。「長崎の新型爆弾の傷はなかなか治らん」

<私の願い>

戦争をしなければ、被爆者は出なかった。放射能は人や動物の体を壊す恐ろしいものだ。二度と悲惨な目に遭わないために、世界中の国々が仲良くして、核兵器を地球上からなくさなければならない。また、将来的には原発をなくすという気持ちを国民全体が持つべきだと思う。

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