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私の被爆ノート

助けの声に何もできず

2012年11月15日 掲載
枡田 洋吉(81) 枡田洋吉さん(81) 爆心地から3・8キロの長崎市十人町で被爆 =佐世保市黒髪町=

旧五島奈良尾町(現・新上五島町)の岩瀬浦小を卒業し、五島を離れて長崎市十人町に下宿。海星中に通っていた。当時13歳で同校2年生。

あの日は登校日だったが、警戒警報を受けて下宿にいた。「ブーン」という飛行機の音が聞こえ、機体を見ようと屋上のベランダに通じる階段を上ろうとした。午前11時2分。突然の閃光(せんこう)で目をつぶり、爆風で体が吹き飛んだ。天井の板が落ちてきて、足に軽傷を負った。

下宿裏の防空壕(ごう)に駆け込んだが「次はここが狙われるかも」と不安が募り、ござを持って近所の人たちと近くの山へ逃げた。高台から見下ろす市街地は火の海。山中で虫に何度も刺されながら、ひもじい思いをこらえ、夜を過ごした。「島に帰りたい」。心の底から願った。

翌朝、長崎港の大波止の船着き場を目指し、1時間近く歩いた。あちこちに真っ黒な遺体、真っ赤な遺体が転がっていた。「お兄ちゃん、水がほしいよ」。声が聞こえたが怖くて直視できず、何もしてやれなかった。今思えば自分は薄情な人間で、あの時なぜ助けなかったのかと後悔の念がある。だが中学生には、あまりに酷な光景だった。

船着き場の水面には、膨れ上がった死体が何体も浮いていた。五島からも漁船が来ていたが、顔見知りしか乗せないという。古里の岩瀬浦郷の漁船はなかった。仕方なく山に戻った。

「親元に帰りたい」。その一心で2、3日、山や下宿に寝泊まりしながら船着き場と行き来した。焼け跡に漂う死臭、死体に群がるうじ虫の数は日に日に増した。奈良尾郷から来た船に頼み、帰郷できたのが8月12日ごろ。2カ月ほど五島で過ごし、学校が再開した。

早稲田大を卒業後、教員として再び長崎へ。定年退職後は中学校などで被爆体験を語っている。あの地獄を忘れないために。

<私の願い>

戦争は殺し合いだ。生きるか死ぬか、そんな争いは永遠にしてはいけない。いじめ問題が絶えず、現在も弱肉強食の人間関係が見て取れ、心配している。互いに愛し合い助け合い、もっと人間を大切にする社会を目指してほしい。家庭、学校、地域が一体となり多くの優しい子どもを育ててほしい。

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